14 思考停止
思考停止は、現実を吟味する人間の能力を妨げるいちばん直接の方法である。教義は完全であり、またリーダーは完全なのだから、持ちあがってくる問題は何でも、個々のメンバーの落ち度とみなされる。彼はいつも自分を責め、もっと一所懸命働くことを身につける。
そのような人間を作り出すための道具が祈祷であり、不信こそ最悪の行為という教えである。
(一) 祈祷
甲第一一六号証 ○○○○○○受講ノート二 一五頁
祈りについて 素直な心情で祈る(幼な子のように)
祈りにおける問題 祈りはサタンがいるから困難です。信じ切ること、祈祷=祈闘
乙ハ第四六号証 原告証人a ライフトレ新生日記 五月三〇日
・講義の感想
信じるということの大切さがわかったような気がする。また、神を信じるということは、心底から信じられなければならないと思った。信じるということには本当に努力が必要だとも思った。
平成八年一〇月一一日付 原告A証人調書 六九頁〜七〇頁
祈祷条件としで四〇分祈るということが出てきましたけれども、祈るのはそれだけでしょうか。実践をするようになってから変わってきますか。
統一協会の中では日常的に祈ることを言われているんですけれども、呼吸をするように祈りなさいと。祈りは神様との会話だ、常に祈っていなさいということを言うので、決めて祈るということのほかに、例えば道を歩きながらでも何かやりながらでも、祈るような気持ちで生活します。
現実に祈りもするわけですか。
はい。
起きているときはずっと祈る生活になっていくと考えていいわけですか。
そうですね。それを心掛けた生活をします。
そんなふうに日常的に祈っていると、どんなことが起きますか。
雑念が起きにくくなると思います。例えば、友達とどこかに遊びに行きたいとか、道を歩いてて自分が好きな洋服を見たときに、ああいうのが欲しいとか、そういう思いを起こさせなくするためだと考えます。
祈っていることによって、自動的に排除されてしまうと。
はい。たとえ起きても、その気持ちを考えないようにするための祈りをします。
正しく思考停止ですね。
はい。
条件としての祈祷というのは、どんな目的でやるんでしょうか。
自分の気持ちを奮い立たせるというか、決意するための祈りが多いです。
決意を高めるわけね。
はい。
乙ハ第四六号証 原告証人a ライフトレ新生日記 五月三一日
・講義の感想
祈りというものがこれほど大切な事だとは思わなかった。祈りの効用もあんなにあるとは思わなかった。
祈りはサタンがいるから困難ですということにもうなづけるような気がする。
これからは、感謝、悔い改め、決意も含めて祈り、神の愛を知るために努力したいと思う。
(二) もう、不信できない
それが霊界の天法にひっかかる最悪の行為であり、イエスによる摂理を失敗させた原因であり、文鮮明は最後のメシアなのであるから、不信することはできないのである。だから、色々と疑問を感じることがあったとしても、思考停止して考えないようにしていく。
乙ハ第四四号証 原告証人a 二デイズ新生日記 五月二七日
・講義の感想
また、メシヤ論は、すごくイエスがかわいそうに思えた。イスラエル民族に受け入れられなかったのはビデオなどで知っていたが、まさか両親にまで認めてもらえなく、生涯、孤独であったというのはすごく心に響いた。
平成八年七月五日付 原告A証人調書 二三頁〜二五頁
その天法の中で一番重い罪は何だとされていますか。
不信することだというふうに教えられます。
不信するというのは、信じないことですね。
はい。
メシア論で講義されることで、イエス・キリストの人間救済の試みというのは失敗したんですか、成功したんですか。
失敗しました。
失敗の原因は何だと教えられるんですか。
不信。人間の不信、洗礼ヨハネの不信だとか、そういうふうに不信したことによって失敗したというふうに教えられます。
だれを不信したんですか。
メシアを不信したこと。
その場合、イエス・キリストですか。
イエス・キリストです。
こういうふうに言ったらいいんでしょうか。イエス・キリストをメシアだとは信じなかったこと、それを不信したと。
はい。
洗礼ヨハネというのは、どんな役割を持った人ですか。
イエス・キリストが救世主メシアですということを世の人にあかす立場でなければならなかったと。
世の人というのは、この場合はイスラエル民族。
そうです。
それにイエス・キリストがメシアなんだということを証明してあげるのが洗礼ヨハネの立場だったと。
はい、そうです。
洗礼ヨハネがそのことがでできなかった。失敗した、不信した。で、国民全体も不信した。その結果、キリストの救済事業は失敗したと教えるわけですね。
はい。
統一協会に入った後、この二つの話、天法の一番悪いのは不信することだと、それからイエスのメシア論の話は、どんな影響を持ちますか。
統一協会員になった立場では、自分たちが文鮮明をメシアだと世界中の人にあかしていかなければならない立場なので、自分自身は文鮮明をメシアでないというふうに不信してはいけないし、あかす立場を全うしなければならないというふうに変わります。
15 献身
親との関係も切って、統一協会以外に社会との関わりがない人間が誕生する。もう、帰るところもない。統一協会で生きる以外道がなくなるのである。
平成八年一〇月一一日付 原告A証人調書 八〇頁
この間、家に帰ることは自由にできたんですか。
いいえ、自由ではありません。
許可が必要なんですか。
はい。
甲第一四三号証 新生トレマニュアル 二四頁
献身の動機の確認。動機の転換、個人的次元から公的次元へ意識転換させていく。使命感、義務感、召命感、切実感から神と人類の為へと転換させる。
信仰の壁にぶつかった時に「自分は何故献身したんだろう」という所まで戻ってくるので、動機をあいまいにしてはいけない。
16 不平不満を待たせない
甲第一四四号証 新生トレ受講ノート 八頁
カイン・アベル問題
カインとしての生活:不平不満を持たない、いつも感謝、謙遜な態度、報告・連絡・相談
甲第一一六号証 ○○○○○○受講ノート二 二三頁
悪霊人達の再臨復活 悪霊人が地上人を打つ、甘受する(感謝して、悔い改めて)
悪霊人が悪人を通じて地上人を打つ。甘受して感謝、悔い改めなければいけない。
乙ハ第八号証 岡村信夫 陳述書 五六頁
悪霊人の復活。悪霊人をして苦痛を与えさせる地上人がこれを感受すればその罪は清算される。
17 やめられない。
平成九年一一月二八日付 原告証人a証人調書 四四頁〜四六頁
あなたは前回の被告代理人の、献身を信じたことを冷静に見て、自分が正しいかどうか、そういったことを検討する精神的な余裕はなくなるものですかという質問に対して、忙しい、寝不足で冷静に見つめ直す機会はあんまり持てないと、こういうふうに言ってますね。
はい。
統一原理において、社会の法律よりももっと重要な法律を何ていいますか。
天法と。
天の法律といいますね。
はい。
それは絶対に守らなければいけないものですね。
はい。
天法の中で、一番やってはいけないことというのは何でしょうか。最も重い罪。
公金を自分で使うこと。
横領すること、それが一つと。それから。
あとは男女問題。
要するに、文鮮明の許しもなく、ほかの人を好きになってしまったと。
はい。
それからカイン・アベルがありますね。
はい。
カイン・アベルというのはどういうことですか。
上司、部下の関係で、上司の言うことは絶対ですと。
上司の言うことは絶対ですね。
はい。
部下の人というのは、自分で物事の判断をしていいのですか、それともいけないのですか。
いけないです。
自分で判断してはいけないんですね。
はい。
上司の命令どおりに行動しなければいけないんですね。
はい。
最後になりましたけれども、もう一つどんなものがあるか。天法四つの罪。イスラエル民族の罪です。
不信ですか。
これはイエス様の摂理を失敗させた最大の原因でしょう。
はい。
統一協会員が絶対に犯してはいけないわけでしょう。
はい。
この不信というのは、統一協会や統一原理に対して疑問を持つことということも含まれますね。
そうですね。
そういった教えが正しいものとして頭の中に入り込んでいれば、自分の信じたことを冷静に見て正しいかどうか検討するということができるんでしょうか。
いや、できないです。
平成一〇年二月二〇日付 原告証人c証人調書 四七頁〜四九頁
堕落した人類、特にあなたのように既に結婚している婦人というのは、どんな筋道で救われるということが教えられましたか。
夫を復帰して合同結婚式に参加すること。
夫を復帰するというのはどういった意味ですか。
統一協会に入れることです。
そういった祝福、合同結婚式を受けるために、当面しなければいけないことというのはどんなことだというふうに教えられるんですか。
万物を復帰すること。
・・・・・・・・
あなたは自分のことが罪人だというふうに教えで思いましたよね。
はい。
そうしたらこの救いの道というのはどんなふうに思うんですか。
メシアにつながっていくこと。
メシアにつながって救われていくことですよね。
はい。
それはもし困難であったとして、困難だからやめていいというような道なんですか。
もしそうなった場合は、子供に何十倍の罪が課せられて、子供が苦労しなければならないということを知らされました。
そういうふうに教えられたと。
はい。
そうすると子供のためにも、どんな困難があってもまっしぐらに進まなきゃいけない道ですか。
はい。
平成八年一〇月一一日付 原告A証人調書 九八頁
今自分が信じている統一原理が正しいのだろうか、あるいは、これは間違っているのかも分からないではないかということを考える余地というのは、生活の中でするんでしょうか。
そういう余裕がないんです。たとえ本当にこのままでいいんだろうかという思いが起こっても、それは自分の気持ちと考えずにサタンの気持ちだと考えるので、それを排除しようとする作業をしてしまうんですね。
現れてくるものではないし、現れてきたとしても排除してしまうと。
サタンの仕業だと。これは私の信仰をじゃまするサタンなんだというふうに考えました。