昭和18年1月15日
札幌市で生まれる
昭和36年3月
釧路湖陵高校卒業
昭和40年3月
東北大学経済学部卒業
昭和43年10月
司法試験合格
昭和46年4月
札幌弁護士会に登録
北海道合同法律事務所に参加して弁護士となる。
昭和58年度
札幌弁護士会副会長
平成6・7年度
札幌弁護士会子どもの権利委員会委員長
平成8・9年度
札幌弁護士会憲法50周年記念事業実行委員会委員長
平成10・11年度
札幌弁護士会刑事弁護センター運営委員会委員長
平成10年11月
独立して郷路法律事務所を開業
平成11年6月
加藤税理士を迎えて、郷路・加藤法律税務事務所となる
平成14年 2月
加藤税理士が独立し、郷路法律事務所となる
コンピューター大好き コンピューターには、昭和58年弁護士会副会長の時、ソードピップスに触れたのが初めてです。サラ金の利息計算のソフトを作ってもらい、膨大な利息計算を処理しました。当時は先進的で新聞でも紹介されましたし、ソードの販促用リーフレットにもなりました。 その頃、マイオアシスというワープロ専用機が、たしか70万円位で富士通から売り出されたので、買いました。以来、親指シフトで富士通に囲い込まれています。 トロンを1年間位使ったのと、VZエディタがとっても使いやすかったために、DOSから離れられず、ウインドウズへの移行が遅れました。平成10年4月頃だったと思います。 コンピューターを仕事に生かす コンピューターは判例検索や条文の検索に役立っています。現在は電子版現行法規、判例体系、判例タイムズ、金融法務事情、ジュリストを使っています。これらのCDーROMやDVDの検索で、裁判所の判断基準となっている条文や判例を極めて迅速に、もれなく検索することができます。 裁判で最も大切なのは事実の認定なのですが、エクセルで事実を時系列処理しています。事実の流れはこれでおおむね理解することができます。 判らないことがあるとインターネットに聞いてみることにしています。インターネットは世界最大の百科事典です。メールは仕事に必須です。 よく使うソフトは、文章作成のWZ エディタ、経理ソフトの弥生会計、サラ金処理のためのサイむ整理くんなどです。 特筆すべきなのは、WZ エディタです。このソフトは文章作成にとどまらず、日程管理から事件管理、事件調査までほとんどの業務に欠かすことができません。このソフトのアウトライン機能はまことに便利な機能です。以下に実践例を一つ紹介します。 明日(平成13年3月29日)が統一協会の事件の最終弁論で、その準備書面づくりに追われていました。B5(44文字×16行)で999頁。大体50万字くらいのものが先ほど完成しました。優秀な事務員さんとWZエディタがなかったら到底できませんでした。 まず、証拠を全部読んで、重要と思われるところをテープに吹き込みました。60分テープで16本になりました。それを全部反訳してもらいました。この作業、昨年(平成11年)12月16日からかかって終わったのが2月26日でした。 反訳した一つ一つには、証拠番号とページあるいは証人調書名と頁が識別用についています。それをWZエディタで第2階層の見出しにします。他方、大体の想定される文章の構造を作成して、それを第1階層の見出しにしておきます。そして、第1階層の文章構造の中に、反訳した第2階層のデータのうち関連あると思われるものを移動していきます。この移動がWZエディタのアウトラインの機能で簡単にできるのです。 別の章を立てた方がいいと思われるときにはどんどんと新しい章を作ります。このような分類が完了したら、章の部分だけを印刷して眺めます。そうすると、関連あるもの、上位概念になるもの、論理的にはこの順番などということが見えてきます。それに従って、並べ替えたり、階層を深めたりします。これもWZエディタのアウトラインの機能で簡単にできるのです。 この作業を納得できるまで、なんどもなんども繰り返します。 納得できるものができたら、見出し部分だけを印刷します。それを読みながら、文章の構造を検討すると共に、誤字脱字をチェックし、データとデータをつなぐ文章の追加をします。その作業を何度か繰り返すと完成です。 最後に見出し部分だけを印刷して、見出しに頁を入れますと目次の完成です。今回はデータ量が多すぎて、なんど作業を繰り返しても全体の見通しがもてず、パニックに陥ったことがありました。大まかな文章構造ができあがったときに半分に分割して、なんとか見通しをもてるようになりました。この作業に丁度1ヶ月かかりました。今回の準備書面、階層を問わず見出しの総数を計算しますと460個でした。その見出しの下には当方の主張とその主張を基礎づける証拠が文章で引用されています。 裁判官の認識方法 裁判官には判例や先例による強固な判断基準が形成されていると思われます。その強さの程度は1人1人の裁判官によって、当然違います。上級審の判断に対する思考停止の傾向がとても強いです。同じ種類のことについて上級審の決定があると、なぜなのかということを考えないという姿勢がかなり強く形成されていると思います。ですから、その判断基準がわからないと裁判官の考え方はわからないのです。 さらに裁判官の認知をわかりにくくしていると私が思うのは、事実認定の際に用いられる経験則が、私達の使い方とは違うということだと思います。 経験則とは経験から類推帰納(個別的・特殊的な事例から一般的・普通的な規則を見出そうとする推論の方法。)された物事に対する知識や法則であり、一般常識に属するものから、職業上の技術、専門科学上の法則まで含まれています。多くの場合、一般常識です。我々の経験を通じて推測される一般的な人間行動の法則性というものは、他の人にも妥当することが多いのです。その人間行動の類似性が、他の人の過去の行動を認識することを可能にするのだと言われています。 普通、我々はある事実を認定するとき、その事実を見たり聞いたりしていないときには、それに関係する事実を認定していって、その事実に経験則を働かせて、必要な事実を認定しています。 ところが裁判官は個々の間接的な事実の認定を一つ一つすることをしないで、自分の裁判官としての経験のなかで身につけていった経験則を大前提にして、その経験則に合うような事実があるかないかを探し、あったらそれで事実が認定できると考えて、その後の思考をやめてしまうというところがあるのだと思います。もちろん個人差はあるのですが。 例えば、私はすべてのお客さんに契約書を書いてもらいます。書いてもらってわかることですが、どのような内容の契約書であろうと自由につくることができるのではないかと思ってしまいます。例えば分割金の支払いを1回でも怠ったならば私はこの事件から辞任しますよと契約書に書いたとします。そのときに、こう書いてはおくけれども1回ではやめないからね、と言えばみんな何の心配も持たないでその言葉のほうを信用してくれます。それはなぜかというと、弁護士というのは法律について権威です。権威の言うことに人は従います。さらに弁護士の前に現れる人は困っています。今、自分が悩んでいるこの問題を、なんとか解決してもらいたいと考えています。他に頼める人はわからないのですから、是非目の前にいる弁護士に事件を頼みたいと考えているのです。その様な弱い立場にいるのですから、どんな内容の契約書でも判をつかせることはできるのです。 そのことを裁判官との懇談会の中で話をして、人間と人間の関係というのは対等な関係ではない事の方が多いのだ、やろうと思えばそういったことだってできるのだから、両者の立場や法律的な知識の相異などを総合的に考えて、本当に契約書に書いてあるとおりの合意が成立しているのかどうかを判断しなければ間違ってしまうのではないかという話をしたことがあります。ところが、裁判官の反応は、はかばかしいものではありませんでした。判を押すということは、本来、内容を理解して、それを承諾したうえでの行動のはずである。それが経験則である。従って、判を押しているという事から、その内容について理解し、そのとおり合意したと認定するのは当然だというのです。 この様な裁判官の考え方に立てば、契約書の内容に従った請求の場合、請求を受けている人が契約書の署名を自分で書いたのか、判は自分の意思で押したのかという点だけがほとんど唯一の問題となるのです。このような裁判官の認知の態度は、結局のところ、契約書に判を押させる時点での社会的強者、法的知識の豊かな者が、現実の裁判の場でも勝利をおさめてしまうという傾向を強めてしまうことになっているのだと思います(裁判官にとっても不本意なことだと思うのですが。)。 社会が法によって統治される本当の目的は、法というルールを平等に適用することによって、弱者の立場を守ることです。ところが、現実の裁判は、適用される法律の問題点は別としても、裁判官の認知の仕方の偏りによって、社会的弱者には厳しいものとなっているのだと思います。 経験則というのは個々の人間行動から推測される一般的な規則ですから、例外を広く許すものなのですが、裁判官にとっての経験則とは、まるで法規のように働く、例外の極めて少ない法則となってしまっているのだと思うのです。 弁護士の課題 裁判官のそのような傾向に対してどのような対処すれば裁判官を説得して、正しい判決をしてもらうことができるのか、というのが弁護士にとっての課題です。 まず、裁判官の持っている判断基準について精通しなければなりません。それは、現実的には、判例をよく調査するということになります。日常的な勉強が必要なことは言うまでもありませんけれども、本当に必要なのは、事件にあたって、充分な調査を尽くすことです。幸い現在では、コンピューターの発達によって、判例集が磁気媒体として公刊されています。インターネット上にも検索できる判例がたくさんあります。コンピューターによる判例検索の優れている点はたくさんの判例を瞬時に検索することが可能だという点です。訴訟提起をしたり、訴訟を起こされた人の事件を受任する際に、関係する判例をしっかりと調査することは、とても大切なことです。 その上で、さらに重要なのは、事件の進行に伴い、裁判官との対話・議論を通じて推測できる、裁判官が考えている問題点、そのような問題点が導き出されてくると推測される判例や先例を、調査して捜しあてることだと思います。裁判官は、この判例があるからこの争点についてはこのように考えるべきであるということを説明してくれません。そのような裁判官の考え方を探るには、まず弁護士の側がしっかりとした根拠に基づいた主張を展開しなければなりません。その主張に対して、裁判官は、何らかの態度を示すことが多いです。何も言わないという態度を示すこともあります。それらの態度を、前後の関係やそれまでの審理の経過の中に位置づけて、自分の主張が裁判官に受け入れられているのか、受け入れられていないのか見極めます。自分の主張が受け入れられていないと判断されれば、それはなぜなのか、裁判官は何を基準に物事を考えているのかを、争点に関する判例などを検索して探ることになります。その判例などが見つかれば、その判例の全文をよく読んで、その判例と自分が現在担っている事件との、相違点や似通っている点を分析します。そして、批判できるものであればその判例を批判することになります。 裁判においては事実認定が最も重要です。裁判官は経験則に従って事実を認定します。その認定方法の問題点は先に指摘したとおりです。裁判官がどのような経験則に基づいて物事を評価しているのかという点についての判断はなかなか難しいです。判例とは違って経験則とはこのようなものだということを明確に書いている本はほとんどないですし、もともと経験則は、例外を広く許す法則なもので、私たちも比較的無自覚に適用しているものでもあり、同じ事柄についても違う経験則を働かせる場合であるなどのことがよくあるからです。そのような状況で、私は、裁判官が適用している経験則について推測を深めていくという方向ではなく、関係する証拠をできるだけ広く集める、という対応策をとっています。 依頼者との関係で、弁護士にとって一番大切なことだと私が考えていることは、裁判官が判断の際に用いる経験則だと自分が考えている判断の基準で、依頼者の話しを否定したり、決めつけたりしないことです。証拠といっても、その重要性の程度はそれぞれに違います。重要性の程度そのものが、展開する主張の中で変わってくるという面もあります。したがって主張や証拠のひとつひとつについて最初から否定的な評価をしないで、虚心坦懐にそれを受け止め、それら時系列的に配置をしてみたり、その内容の意味するところで組み合わせてみたりするなどの作業をしながら、それらの証拠が訴える事実を読みとってくということが大切なのだと思います。そのような取り組みをして、証拠によって認定できる一つ一つの事実と、その事実を経験則によって評価判断して得られる認識を準備書面に書いて裁判官に読んでもらいます。そのようにして到達する私たちの認識と裁判官の認識は一致しうるはずなのです。人間の行動は類似しているのですから、裁判官が全く違った判断基準を別に持っていて、それがどうしようもなく強固な場合には別ですが(刑事事件などでは、そのように思わされることが多くあります。)、そうでなければ、証拠から認定される事実については一致した認識を持ちうるはずで、更にその事実に対して適用されるべき経験則についても、共通の認識を持つはずで、その結果、同じ認識に立ってもらうことができる可能性があるのだと思います。そのような作業を通じて裁判官に自分たちの主張を理解してもらうというのが、弁護士の最も重要な仕事であり、他のどのような職種の人もなしえない、専門的な仕事なのだと私は考えています。 弁護士にとって最も必要な能力は、依頼者の話によく耳を傾け、その主張を裏付ける証拠がどこにあるかよく考え、その証拠をできる限り集め、それを裁判官に分かりやすく整理して提出することだという話を本で読んだことがあります。私もそのことがいちばん大切なことだと思います。 弁護士の課題の実践→統一協会の違法「伝道」責任追求訴訟 取り扱った事件の中で最も特色ある事件は統一協会の信者勧誘方法が信教の自由を侵害するものだという損害賠償請求訴訟です(青春を返せ訴訟と呼んでいます。)。この訴訟、昭和62年3月に提起しました。新聞には当時「極めて異例」と書かれました。 提訴に際して、暴力によって一定の信仰を植えつけることが違法であるのと同じように、暴力と法的には同じように評価できる手段方法で、人に一定の思想を植え付けることは違法であると考えました。この考え方自体は正しいのですが、暴力と同じように違法と評価できる方法とは一体何なのか、当時は全くわかりませんでした。普通の人が霊感商法が正しいと信ずるのは、何か特別な方法を用いなければ到底無理であろうという直感で、「洗脳」という主張をしたのですけれども、統一協会の布教方法には身体の物理的拘束という要素はありませんので、それは無理な主張でした。ですから、この裁判は統一協会の布教方法のどこが違法と言えるのか、解明がつくされないまま起こした裁判でした。 スティーヴン・ハッサンというアメリカの統一協会員だった人で、統一協会を脱会した後に大学院に入って心理学等を勉強した人が、『コンバッティング・カルト・マインドコントロール』という本を書きました(日本訳では『マインド・コントロールの恐怖』といいます。)。平成3年春ごろ、すごくいいよと原書を紹介されました。辞書を引き引き読んでみましたら、カルトの布教過程には社会心理学の諸技術と催眠の技術が使われているということが書いてありました。社会心理学という学問は勉強したこともありませんでした。その本に載っていたフェスティンガーという人の『認知的不協和の理論』という本を買って読んでみたのですけど、難しくてほとんど何もわかりませんでした。 何かいい本がないかなと思い、紀伊国屋や旭屋に何度も何度も行って、関係しそうなコーナーを巡っているとき、帯に「なぜ多くの人が悪徳商法に乗せられてしまうのか、その心理的メカニズムを解明する試みはほとんど行われていないのが実情であろう。社会心理学が従来の理論的枠組みを基礎としてこの応用問題の解決に向けて力を結集することが必要だと思う。」と書いてある本を見つけました。「へぇ〜、悪徳商法。統一協会と似てるんじゃない。」と思って買ったのがロバート・チャルディーニの『影響力の武器』という本です。この本を読んで、統一協会の布教過程で対象者の「自発的」承諾を獲得するために、社会心理学の諸技術が用いられているということがわかりました。この本は、悪徳商法から身を守ったり、人間の関係を分析するためには是非読むべき本だろうと思います。さらに、スタンレー・ミルグラムの『服従の心理・アイヒマン実験』という本。これは人が権威にいかに盲目的に従うのかということを衝撃的に明らかにした実験を記録した本です。 それらの本を読んでびっくりして、統一協会の脱会者に集まってもらって、統一協会の布教過程を研究する会合を始めました。私はそれをマインド・コントロール研究会と名づけていました。毎週土曜日3時から2時間くらい、統一協会の脱会者10名くらいとそれらの本を読んで、ここに書いてあることが統一協会の布教課程になかったかということを聞いたのです。そしたら、あった、あったこんなことがあった、こんなことがあったと出てくるのです。その研究会を3年以上やりました。 本を読まないで質問だけしても事実がなかなか出てきません。その理由は、社会心理学の諸技術は、それが自分に対して加えられているとことを認識させないという性質を持っているからです。例えば、統一協会はビデオセンターを受講することを決めた人からその時に必ずお金を取ります。3000円以上取ります。500円ではだめです。3000円ぐらい支払うと、もったいないという気持ちが働き、受講を心理的に強制する力になるのです。通りすがった人達を誘うわけですから、お金を持っていない場合があります。お金を持ってない場合には、誘った統一協会員が必ずお金を貸します。貸されると返さなければなりません。そのためにも1回はビデオセンターにやってきます。そのような操作が加えられています。そのような意図を持って統一協会が行動していることは、操作されている人にはわからないのです。わからないから、質問するだけでは出てこないですし、聞いている側も社会心理学的知識がないと、その意味がわからないのです。ところがチャルディーニの本を読んだ上で話を聞くと、ああ、そういえばこうされたということが出てきますし、聞く側も理解ができるのです。そのような話し合いを細かく、細かくやりました。これは私にとっては本当にためになりました。統一協会の布教活動の違法性を基礎づける事実の徹底的な発掘作業です。事実の発掘のため、社会心理学の知識が必要とされていたということなのでした。以上のことによって、統一協会の布教過程は、日本で初めて、全面的に明らかにされたのです。 その成果が私の著書、『統一協会 マインド・コントロールのすべて』です。同じ内容を裁判で準備書面として提出しています。充分な調査の上で書きましたから事実と信じていましたが、統一協会の側からは現在に至るも全く、社会的には反論がありません。ですから、今では、この本に書かれていることは事実に違いないと確信しています。この本は出版後5年経ってから、東大の島薗教授の高い評価を得ました。 勝つはずがないと思われてきたこの事件は、上記のような取り組みがあり、それが裁判官を説得することになって、平成13年6月29日第一審の判決があり、原告らの全面勝訴でした。統一協会の控訴、上告も退けられて原告側の全面的な勝訴で確定しています。同じ訴訟が全国で起こされていましたが、それらの訴訟も勝訴できるようになりました。 現在、青春を返せ訴訟では解決することのできなかった点について、統一協会の責任を追及する訴訟を2件提訴しています(信仰の自由侵害回復訴訟の頁をご覧下さい)。多人数の原告による訴訟ですので、まことに大変で、多大な労力がかかるのですが、私にしかできない事件と思って、がんばっています。 弁護士としての傾向 社会的に力の強い人や会社が法律を利用して、力の弱い人などに対して、より有利になろうとすることに手を貸す気持ちにはなりません。お金にはなるのでしょうが、やる気になりません。一番嫌いなことは、力の強い人や会社が法律の力を利用したり、裁判制度の弱点を利用して、弱い人を搾取したり、収奪することを見ることです。統一協会の違法伝道訴訟に私が取り組んだ理由の一つは、統一協会が被害者の「自発的」な承諾によって入信させさえすれば、その後その人をどんなひどい目に遭わせても、日本の裁判では、勝つことができると考えて、行為していたと思われるからです。そのようなことが許せないと思うことが、私の傾向なのだと思います。 他方、同じような立場の人達が対立した紛争で、本来話し合いで妥当なところで解決をつけていくべきという事件への対処は、下手くそだと思います。向いていません。依頼してくれた人に肩入れする傾向が強く、どんなことにつていも明確に白黒つけたいという傾向が強いからです。 ですから、統一協会に対する事件に出会えたことは、私にとって、幸せなことだったのでしょう。現在、債務整理の事件に取り組んでいるのも、サラ金会社が消費者との間の圧倒的な力の差を利用して、法律違反の高利で収奪を行っているということが許せないと思うからです(もちろん、消費者の側にも、問題ある人はいるのですが。)。 ですから、仕事はおもしろいです。弁護士は私にとっては天職だなと思います。