札幌青春を返せ訴訟
 

最高裁判決に接して

弁護士 郷  路  征  記


1 岡山の「青春を返せ訴訟」について、広島高裁岡山支部の原告逆転勝訴判決に対して統一協会が上告していたが、最高裁判所は統一協会の上告を棄却して、ここに原告の勝訴が確定した。まことにうれしいことである。  まずもって、原告と河田先生そしてこの訴訟を支えてくださった方々におめでとうと言いたい。そして、本当にご苦労さまでしたと。
 「宗教団体」の伝道方法が違法であって損害賠償の対象になるという判決が最高裁判所で確定したのは、日本では勿論初めてのことであるし、世界的にもたぶん初めてのことであろう。統一協会の信者獲得活動それ自体が違法と判断されたのであるから、統一協会はその存立の正当性自体を問われていることになる。この判決の影響は長期に渉って、さまざまな分野に及ぶことであろう。

2 昭和62年に全国で初めて統一協会に「洗脳」されたとして慰謝料を請求する訴訟を起こし、その請求の正当性を主張続けてきた私としては、上告棄却という最高裁の決定に接して、やはり特別の感慨を感じた。
 札幌の訴訟提起の際、朝日新聞は「きわめて異例」の訴訟と報じた。珍訴奇訴の扱いである。翌年、札幌で開催された霊感弁連の全国集会で、私は同じ訴訟を全国で「青春を返せ訴訟」として提起しようと檄を飛ばした。元信者の方々や家族の方々は私の発言に熱い支持を寄せてくれたと思うのだが、弁護士達からはほとんど無視された。その後の各種研究会で私もはそのことを主張したが、「現在の裁判所では到底認められない、無理な訴訟だ。」というのが、弁護士達の一般的な見解で、訴訟の火の手はいっこうに広がらなかった。
 私以外の弁護士達の考え方が間違いであったとは言えない。確かに、当時は私の認識も「洗脳・許せない」という程度のものであり、「こんな不当なことを裁判所が許すはずがない。少なくとも国民が許すはずがない。国民世論が変われば裁判所も変わる。その努力をしていく中で、訴訟勝利の展望を切り開くべきだ。」というのであるから、説得力がなかったのもやむを得ない。

3 昭和63年10月、私は統一協会が提起した人身保護請求事件(いわゆる「吉村事件」)の拘束者とされた吉村君のお父さんらの代理人となった。その事件で初めて私は「救出活動」の存在を知ったのである。統一協会員は説得によって昔の自分に戻れるのだという。説得された元統一協会員に会ってみたら普通の人であった。そればかりでなく、統一協会の中で正しいことと信じて行った霊感商法などを痛切に悔やみ、自分を責めている人であった。ある方は「頭の中に堅固に構築されていた原理の砦にどこからか矢が一本飛んできて、当たったと思ったら、その原理の砦が音もなく崩れ落ち、後には何も残っていない状態だった。」と原理を離れたときのその瞬間を伝えてくれた。私は何と不思議な世界なのだろうかと思った。なぜそうなるかを是非知りたい、そしてそこを解明しなければ人身保護請求で父が勝利することはできないと考えた。
 しかし、この時も弁護士のほとんどすべては議論をその領域に進めることに反対した。教義がかかわる問題については裁判の対象にはならないし、「洗脳」という問題は裁判所が理解不能な問題だいうのである。人身保護請求事件の性質上、迅速な解決が要求されていたため、この時も、「入信」の経過についての分析はできず、主張もできないと言う状態であった。  しかし、私はその点こそが統一協会をめぐる問題の中心=環であると考え、自分が提起した「青春を返せ訴訟」の中で究明していこうと決意を新たにした。

4 昭和63年頃から、私は統一協会が侵害したのは元信者たちの思想信条の自由そのものであると考えるようになった。事件に即して不法行為の構成要件を考えているうち、そのことに思い至ったのである。宗教的価値観は人の人格の中枢を占めている。そうであるが故に、その人が主体的に選択した信仰は、それがいかに常識的なものではないとしても絶対に守られなければならないのである。逆に言えば、信仰は主体的に選択されなければならないと言うことである。主体的な選択を阻害して一定の信仰を注入した場合には、思想信条の自由が侵害されたのだと私は考えたのである。
 この考えも、しかし、弁護士達には評判がよくなかった。そのような主張を展開しましょうと言ってくれた人は全然いなかったように思う。でも、棚橋先生が、「宗教的自己決定権の侵害」という言葉で私の言いたいことをまとめてくださった。分かりやすく、正確であり、自己決定というなじみやすい言葉が中核にある定義なので、統一協会の伝道方法は「宗教的自己決定権の侵害」であるという訴えは、とても説得力のあるものとなっていった。そして、広島高裁岡山支部の判決では「宗教選択の自由を奪って入信させた」と判断されるまでになったのである。

5 さて、そのような判断の枠組みを得たとしても、統一協会の具体的勧誘方法が明らかにならなければならない。そうでなければ、それが「宗教的自己決定権の侵害」と言えるものなのかどうなのか、裁判所では判断のしようがないのである。  催眠の勉強をしたりいろいろな試行錯誤があったのだが、この点を突破したのは、なんと言っても我々が社会心理学の研究者に出会えたためである。
 そのきっかけは「影響力の武器」であった。その頃、私は統一協会の伝道方法を分析するために必要な書籍を求めて札幌の本屋を巡り歩いていた。その巡り歩きの中で「影響力の武器」を発見して手に取ってみたのである。まさに「犬も歩けば棒に当たる」であった。読んで引き込まれた。そして、統一協会の伝道方法の解明のために極めて重要な示唆を与える本であると思ったので、研究会にその本の翻訳者の代表者を呼んでいただき、講演を受けることにしたのであった。その時に一緒に来ていただいたのが西田公昭先生であった。聞くと「ビリーフ(信念)の変更」が研究のテーマであるという。西田先生も社会心理学で研究されている影響力の諸手段が統一協会の伝道方法に多彩に、複雑に使用されていることに驚いた様子であったが、私たちもこれほどドンぴたりと統一協会の伝道方法の解明に必要な学問分野があるとは思わなかったので、驚いたのであった。本当に幸せな(統一協会にとっては不幸な)出会いであったと思っている。
 西田先生の研究と、浅見先生の「マインド・コントロールの恐怖」の翻訳出版で、私たちは統一協会の伝道方法が「宗教的自己決定権の侵害」であると言いうる知識を身につけることができたのである。

6 平成3年11月から私は元信者達からの聞き取りを始めた。一人一人の聞き取りでは統一協会の伝道方法の全体を分析することにならないので、たくさんの人たちにあつまってもらい、「マインド・コントロールの恐怖」などを教科書として使い、統一協会の伝道方法を詳細に思い出してもらったのである。その成果が平成5年10月に出版された「統一協会マインド・コントロールのすべて」である。それ以来、もう7年以上の月日が経つが、統一協会はこの本の内容について一言も批判をしていない。統一協会と同列においては申し訳ないが、この本の中のほんの一部の論点について室生忠がまと外れな批判をしているだけである。同じ内容を訴訟の準備書面として提出してあるのだが、被告統一協会は一言も反論しない。証人尋問で、被告統一協会申請の証人として出廷した統一協会員たちも、この本に書いていることを否定しない。であるから、この本の内容はすべて事実なのだと私は確信している。統一協会の伝道方法として、この本に書かれていることが現実に行われていたのである。そして、この本に書かれている事実を前提にする限り、統一協会に責任を否定することは困難であると、島薗教授も認めているのである。
 しかし、私の本が出版された後も、「青春を返せ裁判」は息がなかなかあがらなかった。低額での和解を選択せざるを得なかったり、敗訴判決をもらわなければならなかったりであったのである。
 また、裁判以外の場においても、マインド・コントロール論に対する批判が展開されるようになってきた。マインド・コントロールの定義が曖昧であることを中心にしながら、マインド・コントロールという「言葉」で、問題のありそうな宗教団体について否定的に批判することに対する危惧があらわれていた。

7 札幌での裁判も困難に立たされていた。裁判官が全員交代して後、原告らに厳しい訴訟指揮が続いていた。伝道方法をどれだけ詳細に法廷に明らかにしても、裁判所のよってたつ「自由意思を有した自立した個人」という抽象的既成概念が邪魔をして、違法の評価を得ることは困難なのかという思いが私を苦しめていた。
 そのような中で、私は裁判所が不法行為成立の要件としている「目的、手段、結果の社会的相当性」という判断基準に照らして統一協会の伝道を分析してみようと考えた。その結果、到達したことは、統一協会の伝道はその目的自体が社会的相当性を欠いているのではないかという認識であった。それまで、統一協会に関する判決を見ても、統一協会の伝道目的は宗教団体の教化勧誘活動ととらえられていて社会的には相当という判断をされていた。しかし、統一協会の伝道目的は「人の教化」であろうか?それまでに行われていた原告本人尋問に照らして、それは断じて否であると私は思った。統一協会の伝道目的は「被告統一協会がその組織をあげて実行している違法な物品販売活動及び献金獲得活動(以下「経済活動」という)の対象者として統一協会の商材を購入させたり献金させたりするだけではなく、経済活動の担い手として、それに従事させること」なのである。そうだとすると、この目的は社会的相当性を欠くことが明らかであるし、そのような目的であるから伝道の手段も社会的相当性を欠くものになることは分かりやすい道理であると思ったのである。
 私はその内容の準備書面を平成12年7月に裁判所に提出した。

8 そうしていたところ、広島高裁岡山支部は前記のとおり9月14日一審で敗訴した原告を勝訴させる逆転の判決を下した。その判決内容を検討すると次のことが明らかになる。
 判決は争点判断の基礎になる事実について、原判決の認定した事実に加えて、特に、万物復帰の教義と文鮮明の金儲けの指示(説教)、ハッピーワールドなどの経済組織の存在と霊感商法を行っていること、信者らが救いのためと教えられ罪障感もなしにノルマ達成のために経済活動に従事すること、その利益がほとんどすべて統一協会に渡ることを認定した上、「以上認定した事実からすると、被告自ら、あるいは、少なくともその信者組織において万物復帰の実践のための活動として、霊感商法等違法な商取引を含む系統的、組織的な資金獲得活動をしてきているものと推認する以外ない。」と認定したのである。
 以上のとおり、統一協会が、すくなくともその信者組織が系統的、組織的な資金獲得活動をしてきていることを認定した上で、判決は、統一協会への勧誘目的の判断のところでは「宗教団体の行う行為が、専ら利益獲得等の不当な目的の場合」には社会的相当性がないという判断を付け加えているのである。
 そうすると、岡山支部の判決が原告を逆転勝訴させたのは、統一協会の伝道目的(組織拡大目的)が、その人の教化のためではなく、その人を専ら利益獲得の対象として、ひいては利益獲得を目的とする活動に従事させることを目的としているとの判断があったのではないかと考えられるのである。この目的が社会的相当性の欠いていることは言うまでもない。
 そうであるとすると、この判決は一般的な宗教団体の勧誘活動についてそれが違法であるとしたのではなく、その組織が「もっぱら利益獲得」などを目的としている「宗教団体」の勧誘活動について違法としたのだと考えることができる。そうだとすると、この判決が他の宗教団体の活動に対して抑圧的な影響を及ぼすのではないかと考えることはないであろう。

9 残された課題は、全国しあわせサークル連絡協議会やしあわせ会が虚偽の団体であり、霊感商法や定着経済を行っているのが統一協会そのものであることを裁判上確定すること、そして統一協会そのものの不法行為責任を認めさせること、統一協会の行っている定着経済が宗教法人法違反・公序良俗違反の行為であることを明確にさせることだと思う。
 最高裁の決定を支えに、その目的に向かって頑張りたいと思っている。

以上


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