99年7月、郷路弁護士から久々に来た、長い手紙。私達にとっては進んでいなかった裁判が急に大きく動き始めた時だった。91年5月に統一協会を脱会し、92年9月に裁判に加わってから、ずっと裁判はゆっくりと進んできて、私は原告であることも、統一協会のことも、ほとんど思い出さない日々を過ごしていた。
 手紙を飛ばし読みして私はびっくりした。これまで事件を担当していた裁判官が全員転任してしまい、訴訟の方向性が全く変わってしまったことが書いてあった。裁判官はこれまでの記録を詳しく読んでいないにもかかわらず、解決を急いでいて、それも協会側を勝たせるという方向での結論を考えているらしい。その打開策として、最初は陳述書のみの予定だったのに、原告全員の尋問を予定しているというものだった。
 「9月3日には原告Dさんと○○さんを、・・・・尋問する予定にしております。まだご本人たちの承諾は得ていないのですが・・・・」いつかはこんな日が来るとは思っていたものの、急すぎる。手紙を受け取った日から約1ヵ月しか時間がない。しかも当時の私は1歳半の長男がいて、次男を妊娠中だった。一瞬断ろうかとも思った。しかし弁護士からの手紙を読めば読むほど、このままでは負けてしまうという思いが強くなった。裁判所の態度は非常に理不尽なように思えた。司法制度とは弱い人間を救済するためにあるのではないのか。とにかく何もしないで、負けるわけにはいかないと思い、子供が一人の今のほうがまだ何とかなると思い直した。
 それから裁判までの間、5、6回打ち合わせに通ったでろうか。片道1時間半の道のりをベビーカーに長男を乗せて、JR、地下鉄と乗り継いで通うだけでも大変だった。打ち合わせ途中で、ぐずりだした息子を、ひざに抱っこしたまま打ち合わせを続けるうちに、眠ってしまって、やれやれと思ったことが何度もあった。最後の方になると息子は、弁護士事務所のビルに入るのを嫌がるようになってしまった。
 しかしそれよりも困難を感じたのは記憶の風化という壁だった。原理用語、内部組織、講義内容、セミナーのスケジュール、主の路程、全てにおいて、私よりも郷路弁護士の方が詳しい。自分の書いた陳述書でさえ、ここにこう書いていますよ、教えられるほどだ。これほど忘れているとは思わなかった。原理の間違いについて気付くきっかけになった個所さえ、すぐには思い出せないほどだった。
 実は、私の陳述書は250ページもある超大作で、裁判所からは長すぎると言われ、協会側弁護士からは、こんな長い陳述書を本当に私一人で書いたのかと質問されるほどだった。私も最初からこんなに長いものを書くつもりではなかった。書き進むうちに次々と思い出すことがあり、いろいろな思いを書き留めていくうちに、どんどん長くなってしまった。読み返すだけでも何日もかかる代物だった。
 しかし、綿密に打ち合わせを重ね、他の脱会者からの資料なども参考にして、次第に記憶がよみがえっていくのを感じた。よくテレビドラマで、刑事が被害者に「どんな小さなことでも思い出したことがあったら教えてください」と何回も聞いて、事件を再現していくのに似ていると思った。
 そして、証人尋問当日。最初はさすがに緊張したが、次第に落ち着きを取り戻していった。最終的に時間内に収まるかどうかを、実験することはできなかったので、郷路弁護士の判断で延長路程になった。
 裁判長は、聞いているのかいないのか、わからないような態度で、目をつぶったままで、居眠りしているようにさえ見える。「原理が間違いだとわかった時にどういう気持ちになりましたか」という質問の時だった。私は答えながら、どうしても涙声になってしまった。その時だけ、裁判長がはっとした顔で私を見た。直前の打ち合わせの時にも、思いがけず涙声になってしまい、本番の時は泣くまいと思っていたのに。もう何年も経っていたので、自分でも意外だった。自分はまだ回復していないのかと、少し戸惑った。
 協会側弁護士の質問には、それほど戸惑うような質問はなかった。ただ一つ残念だった事がある。私は献金や物品購入の被害は、協会と交渉して脱会時に取り戻していたのだが、それなのになぜ裁判をしているのかという質問があった。それに対して、真理でないものを真理だと教え込まれえ、マインドコントロールされた事に対して、謝罪してほしかったとその時は答えた。もちろんそれも本当の気持ちだ。でもそれだけではなく、自分と同じようにつらい気持ちを味わう人を一人でも減らしたい、今も協会で頑張っている兄弟姉妹に少しでも考える材料になってほしい、そういう気持ちも強かったのに、すっかりそのことを忘れていたことに、帰り道で気づき、自分が何だか身勝手な人間に思えた。
 尋問を終えて、自分の出来る限りの事はやった、という思いはあったが、裁判長のあの冷たい無関心さを思い出すと、裁判の行方に関しては暗い気持ちになった。
 その次に私が裁判所を訪れたのは、今年3月27日の最終弁論の時だった。郷路弁護士は協会側証人の証言と書証だけを使って、分厚い準備書面を提出していた。私たち原告は目次のみを受け取ったのだが、B4で7ページもあるものだった。法廷での最終意見陳述では、困難な状況の中、より一層の強い信念で語るのが感じられた。その時の裁判長は、郷路弁護士の話には熱心に聞き入っていて、協会側の弁護士の話は聞き流しているように私には見えた。閉廷後、郷路弁護士から、裁判長は最初の頃と変わってきた、やはり原告1人1人の証言の力によるものだと思う、と聞いた時は胸が熱くなった。全面敗訴はないだろうとも聞いた。
 ところが最終判決の6月29日の約1週間前、弁護士事務所から手紙が届いた。最終弁論の後も、裁判長から和解を勧められていた。控訴に向けての委任状を用意してほしいという旨だった。がっくりして、何も考えられなかった。手紙を何度か読み直した。敗訴という言葉こそなかったが、控訴するということは敗訴が予想されるからに違いない。高裁での判決が出るまで、あとどの位かかるのだろう。又家族に迷惑をかけてしまう。又証人尋問が同じようにあるのだろうか、と思うと気が重くなった。そうまでして統一協会と関わる事は、却って過去から立ち直っていない事にならないだろうか、とも思った。控訴するか、断念するか、判決の日まで迷い続けた。
 運命の6月29日が来た。今日から又新たな戦いが始まるのだ、と思いながら向かった。やはり控訴する方に私の気持ちは傾いていた。まず、弁護士事務所に集まった。裁判所から前日に連絡が入り、判決文は厚さが10センチほどもあるので、綴じて渡すとすれば今日渡せないかもしれないと言われた、と郷路弁護士から説明があった。証人尋問は、急がせたくせに、判決当日になって、判決文が出来ていないとは何なのか。しかも敗訴なのに、そんな長い判決文とはどういう意味なのか。
 内田弁護士も顔を出し、われわれ原告の気持ちを察して、いろいろ話してくれた。「判決なんて、ものの数十秒で終わってしまう時もあるんです。判決理由もない時すらあるんです。最初に、原告と言うか被告と言うかで分かりますから・・・。」
 開廷の時間が近づき、緊張しながら法廷へと向かう。着席して待っていると、用意の為、少し遅れますと言われる。数十秒しかない判決言い渡しのために、待たせるのかとむっとする。じっと待つのがつらかった。裁判長が現れて、まずはこの裁判に十年以上の歳月がかかってしまった事を詫びる。その後、敗訴とも勝訴ともはっきり分からないまま、判決文の朗読は続く。
 「原告Aに、○○万円を支払え。原告Bに、○○万円を支払え。原告Cに・・・」この部分を聞いた時に、もしかして勝ったのだろうかと思った。その後、難しい言葉が多く、はっきりしないながら私たちの訴えが認められているらしいことが分かってきた。伝道するときに、宗教であることを明示しない、身体障害者、末期がんの患者などは伝道しない、協会の教義とは関係ない手相や家系図を使って、恐怖心をあおる、などなど30分以上、判決文の朗読があった。協会側は、原告も同じような社会悪を行っていたのに訴訟を起こす権利はないと主張しているが、それをはねつける趣旨の内容まであった。
 やはり真実には力があるのだ。私たちがおかしいと感じていた事は、やはり誰が見てもおかしいと認められたのだ、と思った。知り合いの皆がニコニコしているので、勝った事は間違いないが、敗訴だとばかり思っていたのに、全く意外な判決だったので、雲の上を歩いているようでおぼつかない。「よかったですねー。全面勝訴ですよ。」と内田弁護士の言葉で、皆もわっと声を上げた。
 短時間であのすばらしい判決文をまとめ上げるのに追われたため、判決当日に判決文を原告側に渡せないという異例の事態が起きそうになったのだろう。判例集に載るくらいの画期的な判決だそうだ。
 原告の皆様、本当にご苦労様でした。原告のほとんどが育児や介護、仕事で多忙な中、あるいは遠方から出廷し、家族や職場の理解や協力を得るための葛藤もあったに違いない。それにしても郷路弁護士はよく14年もの間、エネルギーが続いたものと思う。私たち原告は提訴当時は、それぞれ強い思いを持って協会に戦いを挑んだわけだが、ずっとその気持ちのまま持続していけるものではない。もっと重要と思われることが次々と出てくる。それでも、たまに会う郷路弁護士が何時も変わらぬ信念で、裁判に向かっている姿を見ると、又気持ちを新たにする事が出来た。
 私がよく思い出すのはマインドコントロール研究会である。これは原告を含む脱会者が毎週、郷路弁護士と開いていたもので、ビデオセンター勧誘時からの教育課程を、思いつくままに話し、郷路弁護士が質問する形式だった。マインドコントロールに関して説得の時とは違い、リラックスして考えることが出来、自分自身のリハビリにもなり、とても感謝している。私たちの話を取りまとめ、理論化するという地道で膨大な作業をよく成し遂げて頂いたと思う。
 まだまだ言葉に尽くせぬ思いがあるが、この札幌での判決が全国の判決によい影響を及ぼしてくれることを心から願って、締めくくりたいと思う。

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札幌青春を返せ訴訟



「一審判決勝訴を振り返って」


原告 D