準備書面(13)
平成16年(ワ)第1440号
損害賠償請求事件
原 告 ○○○○ 外51名
被 告 世界基督教統一神霊協会準 備 書 面(13)
平成19年6月5日
札幌地方裁判所
民事3部合議係 御中
原告ら訴訟代理人
弁 護 士 郷 路 征 記
弁 護 士 内 田 信 也目 次
1 この準備書面の目的
2 分析対象の判決
3 目的について
(1) 認定の定着
(2) 認定の発展
(3) 統一協会の勧誘目的
(4) その言語に絶する不当性
(5) 目的の不当性と畏怖困惑させる手段の欠如
(6) ゲストへの商品販売の違法性
(7) 異なる見解
ア 印鑑について
イ 指輪について
4 手段について
(1) 統一協会であることを隠すこと
(2) 不当な目的を隠すこと
(3) 畏怖困惑させる手段と離脱を困難にする教え
(4) 偽りの希望
(5) 社会心理学の知識の濫用
(6) 壮婦の教育過程の違法性について
ア 東京青春を返せ訴訟の判断
イ 統一原理を教育する前に因縁、地獄、女性の罪を植えつける
ウ 別表「人格変化」の説明
エ 崖のような断絶
オ 最終的決定を求める時期を先送りする
カ 求める決定の性質とメシアの必要性
キ 罪人は救いを求め、メシアを受け入れる
ク 因縁を教え込む必要性
ケ 船を山に登らせるような操作
5 結果について
1 この準備書面の目的
平成13年6月29日、札幌地方裁判所が、統一協会の入教勧誘・教化行為について、その目的、手段、結果が社会的相当性を欠くがゆえに違法なものであると判断してから、6年の年月が経過している。
その間、同種訴訟における裁判例が積み重ねられてきた。それらの判決の分析を通じて、現段階における本件訴訟の方向性を明確にしようとするのがこの準備書面の第1の目的である。第2の目的は壮婦(既婚婦人)に対する入教勧誘・教化過程を分析し、その違法性をより明確に解明しようとしたことである。第3に「統一協会的自己」と「その人本来の自己」の分析を通じて、統一協会員は、常に「意思形成の自由」が阻害されている状態にあることを説明しようとしたものである。
2 分析対象の判決
分析の対象とした判決は、別表「札幌青春を返せ訴訟一審判決以降の裁判例の動向」(以下、「別表動向」という。)に記載されている9つの判決である。別表動向は、それらの判決について、裁判所が、目的、手段、結果と個との承諾の効力について、どのような認定をしているのかを一覧表にまとめたものである。なお、平成14年10月25日付京都地方裁判所判決(以下、「京都判決」という。)は、統一協会による献金の勧誘・物品販売によってこうむった損害の賠償を求める裁判であるが、統一協会の入教勧誘・教化行為そのものの違法性を真正面から問うた裁判ではない。また、平成19年2月26日付東京地方裁判所判決(以下、「ホームオブハート事件判決」という。)は、被告を統一協会としたものではない。しかしながら、いずれも、本件訴訟を考えるにあたって、示唆に富むと判断したので分析の対象に加えた。
なお、今後別表動向の裁判例については、別表動向の事件名欄に記載した名称によって特定する。
3 目的について
(1) 認定の定着
札幌青春を返せ訴訟判決は、日本の歴史において、たぶん初めて、「宗教団体」による入教勧誘・教化行為の目的を「原告らの財産の収奪と無償の労役の享受及び原告らと同種の被害者となるべき協会員の再生産という不当な目的」と判断したものだと思われる。この判断は、「宗教団体」による勧誘であるというその外観にとらわれるのではなく、入教勧誘・教化行為が行われた後、被勧誘者が実際におこなわされることになる事実に着目してその目的を判断した点において、大変優れたものであった。
別表動向で分析の対象としたすべての判決において、統一協会の入教勧誘・教化行為の目的についての判断は、札幌青春を返せ訴訟判決と、表現にいくらかの違いはあるとしても、実質的には同じである。統一協会の入教勧誘・教化行為の目的について、判例の認定は固まったと評価して差し支えないであろう。札幌青春を返せ訴訟判決よりも、厳しい表現をした判決もある。例えば、「著しく不当な目的」に類する表現が使用されている(甲第7号証148頁、甲第8号証35頁)。
(2) 認定の発展
目的の認定において注目すべきなのは、ホームオブハート事件判決である。この判決は、被勧誘者の積極財産のすべてをホームオブハートに提供させることはもちろんのこと、複数の貸金業者やクレジット業者から借入限度額満額の借り入れをさせて、その全額をホームオブハートに提供させることを、ホームオブハートが被勧誘者をセミナーに勧誘してその後教化する目的として認定している。このような判断に至ったのは、判決裁判所がセミナーへの勧誘、その後の教化行為が行われた後、セミナー生が、ホームオブハートから要求される具体的な行動を事実に即して認定して、そこからホームオブハートの目的を認定していったからであると判断される。
この認定態度は、札幌青春を返せ訴訟において裁判所が採用した認定態度そのものである。札幌青春を返せ訴訟の原告らの体験では、統一協会が、統一協会員に対して、自己破産せざるを得ないほどの借金をさせてまで献金させるということがなかったため、そのような事実が主張、立証されず、したがって、そのような認定にはならなかったのである。
(3) 統一協会の勧誘目的
現在の事実関係に基づいて、統一協会の入教勧誘・教化行為の目的を認定するとすれば、以下のようになるべきである。
献金や統一協会の商材を買わせることによって、統一協会員のすべての積極財産を収奪すること及び可能なすべての貸金業者やクレジット業者から借入限度額満額の借り入れをさせてこれを収奪すること(統一協会員の返済能力は全く考慮されない。)、可能な限り統一協会員の友人、両親、親戚、夫などの財産を、物品販売を通じて収奪すること、さらに可能であれば夫や両親の財産を無断で統一協会に献金させること、そして統一協会員を無償で統一協会の業務(物品販売活動、入教勧誘・教化活動、及びそれらに付随する業務)に従事させ、その労働力を収奪すること、そしてそのような犠牲者を再生産すること。
(4) その言語に絶する不当性
以上のような、統一協会の入教勧誘・教化行為の目的は、言語に絶するほど不当なものであることは言うまでもない。統一協会の目的に従った行動を統一協会員は強いられる。その行動は、統一協会員の、最も大切にしなければならない身近な人間関係をすべて破壊していく。多額の借金を申し入れるための親や親戚との関係をたたれ、勝手に夫名義の預金を解約、献金して夫から離婚を請求され、子どもたちからも見捨てられた統一協会員が、あるいはそのような危機にさらされている統一協会員がたくさんいるであろう。したがって、統一協会はその人を救うのではなく、その人の人生そのものを破壊してしまう組織なのである。
以上のように突き付けられてくる現実に対して、統一協会は、統一協会員に対して、「霊界にいけば、みんなが分かってくれる。みんなから感謝される。」と考えるよう教育しており、統一協会員は後述する「統一協会的自己」の働きによって、そのように信じている。したがって、その恐ろしい現実が見えなくされるのである。そして、統一協会は「ここでやめたら、霊界にザンソされる。地獄に堕ちる。」と教育している。したがって、統一協会員は恐怖に縛られ、別の選択をすることができないのである。
すなわち、それは、後述するとおり、違法な入教勧誘・教化行為によって本人に植え付けられた「統一協会員的自己」が、そのような行為を行うことを「その人本来の自己」に、強制しているからなのである。したがって、それらは、統一協会員にとって自由な意志によって選択した行為ではなく、「その人本来の自己」による自由な意思形成が「統一協会員的自己」によって、阻害された結果なのである。
(5) 目的の不当性と畏怖困惑させる手段の欠如
以上のような目的を持った統一協会が、青年の入教勧誘・教化過程に被勧誘者を勧誘する行為には、その当初の行為自体には被勧誘者を畏怖困惑させるような要素は見られない(人に影響力を及ぼす社会心理学的技術が多用されている。)。しかし、その当初の勧誘は、通常のサービスの勧誘行為や商品の販売行為とは異なって単独のものではなく、複雑に組織された入教勧誘・教化過程への入口にすぎなく、その後の過程を段階を踏んで歩ませていくことによって、上記の不当な目的を達成しようとするものなのである。したがって入教勧誘・教化過程を一つの目的によって統制された全体として一個の過程と評価して、その過程全体の違法性との関連の中で統一協会の入教勧誘・教化過程の当初の行為自体の違法性を判断すべきである。そして、そう評価すべき事は、被勧誘者が統一協会の入教勧誘・教化過程に幸いなことに深入りすることなく、その現象だけ見れば、単独の商品購入行為や、サービスの勧誘行為に終わってしまった場合でも、変わらないといわなければならない。
このことは、すでに札幌青春を返せ訴訟判決が次のとおり認定している。
「このように、被告協会員による被告協会への勧誘等の方法は、個々の勧誘等の行為それ自体を個別的外形的に観察する限りは、詐欺的強迫的手法を用いていることが明らかなものを除いては、本人も承諾納得の上での任意の選択を求めるものであって、それ自体の違法性を論ずることができないようにも見えるが、その勧誘方法が信者獲得という一定の目的のもとに、あらかじめ周到に準備された組織的体系的目的的なプログラムに基づいて行われているという前記のような事情に照らせば、その勧誘等の手段方法の違法性を判断するに当たっては、その個々の勧誘等の手段方法の違法性だけを論ずれば足りるものではなく、その勧誘方法全体を一体のものとして観察し、その一部分を構成する行為としての位置付けの中でその部分の違法性を判断することが必要であるというべきである。」(甲第1号証 499頁から500頁)
ホームオブハート事件において東京地方裁判所は次のとおり判決している。MASAYAコンサートへの勧誘は普通のコンサートへの勧誘と同様の方法でなされているのだが、「平成14年7月の被告ホームオブハートのスタッフによる原告に対するMASAYAコンサートへの勧誘に始まる原告へのセミナー等への参加の勧誘、商品及び施設会員権購入の勧誘並びにオーガニックヴィレッジへの出店の勧誘行為は、原告にマインドコントロールを施し、その状態を維持する意図に基づく一連の行為であって、平成14年7月の最初から全部違法な行為と評価されるべきものである。したがって、平成14年7月のコンサート費用の支払いに始まる原告の被告ホームをハートに対する前記認定の金銭支払行為は、被告倉渕らの違法行為がなければ発生しなかった支出であって、原告に現実に生じた支出の限度において、その全額が被告倉渕らの前記違法行為と相当因果関係のある損害に該当するものというべきである」(甲第11号証 50頁)。
(6) ゲストへの商品販売の違法性
上記の各判決の認定は、きわめて正当なものである。本件についてこれを見ると、親や友人や親戚を定着経済の展示会や高麗人参茶などの販売のための健康展に勧誘して、そこで統一協会の商材を買わせる行為は、統一協会員にとっては、入教勧誘・教化過程の入口と信じられている。そのように認識されているのは、統一協会が、入教勧誘・教化過程において、そのように教育するからである(甲B第359号証 43頁、甲B第376号証 19頁)。したがって、そこで商品を購入させられた人々についても、統一協会の不法行為が発生するというべきである。
なお、ゲストに対する定着経済の商品の販売においては、人に影響力を及ぼす社会心理学的技術が多用されていて、それだけでゲストの意思形成の自由が阻害されていることについては、すでに別の準備書面で詳細に述べたとおりである。そして、統一協会の目的の言語に絶する不当性を考えれば、通常の商品の販売と同じく「単発」の行為と評価されるとしても、ゲストに対する商品販売は当然違法と評価されるべきなのである。
(7) 異なる見解
この点について京都判決は異なった見解にたっている。具体的には、例えば、同訴訟の原告である■■■■の印鑑と指輪の購入に関する請求が棄却された(甲第6号証 105頁、107頁)。統一協会に入会する前に、特段、困惑・畏怖されるような話をされることなく、自らの自由意思によって商品を購入したと評価されるものについて、請求を棄却しているのである(別表動向4頁、甲第6号証 103頁)。
ア 印鑑について
しかし、印鑑の購入は、次に連なる壷の購入→ビデオセンター入会の入口なのである。印鑑の販売の際に、統一協会員はその人の傾向やトークへの反応を分析し、その人が統一協会に勧誘するのに適しているかどうかの判断をしている。その判断がアベルと検討されて、壷の販売(これは霊感商法そのものである。)につなげられ、「霊場」における先祖の因縁の脅しでビデオセンターに入会させてしまうのである。この事実は青森事件のマニュアルである「担当者の心構えと姿勢」(甲A第14号証の5 10頁)に「印鑑を20〜30万円で買い、又、100万のS(ツボのこと)を勧めるということで、とても人情的になりやすいのですが・・・。」と記載されていることや、「販売・契約時」と冒頭に記載されているマニュアル(甲A第14号証の4)が、印鑑を売りつけた後から始まっていることからも明らかである。また、この時期の印鑑の販売は十分に畏怖困惑させるトークが用いられたはずである(甲B第10号証)。京都判決は、以上のような事実を見逃しており(立証が十分でなかった可能性もありうる。)、その結果誤った判断におちいったものと思われる。
イ 指輪について
同原告について請求が棄却された指輪の購入は、既に統一協会の入教勧誘・教化過程を歩まされているが、まだ統一協会に入会していない時期におきたことである。同原告が統一原理であることを教えられず、真理であるとして統一原理を学ばされている段階のことなのである。後述のとおり統一協会への入会前であったとしても「統一協会的自己」が全く形成されていないということなのではない。それは教えに従い徐々に形成されていっているのであり、その部分的な「統一協会的自己」の影響なしに、指輪の購入はあり得ないと考えられる。
統一協会が統一協会への入会前に同原告に指輪を売りつけたのは、その段階で指輪など定着経済の商材を売りつけても、同原告が現在歩まされている統一協会の入教勧誘・教化過程を離脱することはない、その程度にはすでに同原告を支配していると判断したからである。例えば、先祖の因縁の存在を信じこまされているとか、堕落人間であると信じさせられていて救いを求めているとか、霊の親やスタッフに強い信頼感を持たせられているなどという状態の人であれば、指輪を売りつけても統一協会の入教勧誘・教化過程を離脱することはない。そのような判断ができない人については、もっと教え込んで、離れる心配がなくなってから売りつけるのである。すなわち、定着経済による被害が統一協会の入会の前になるのか後になるのかは、もっぱら統一協会による、その人の「統一協会的自己」の形成度に対する判断によっているのであるから、京都判決のように、統一協会入会の前後で、商品販売に関する統一協会の行為の違法性についての評価を変えるべきではない。
又、定着経済による商品販売も統一協会の不当な目的を実現するための手段であり、そこでは人に影響力を及ぼす社会心理学的技術が多用されていて、それだけでゲストの意思形成の自由が阻害されていることについては、上記のとおり、すでに述べたとおりである。
4 手段について
(1) 統一協会であることを隠すこと
札幌青春を返せ訴訟判決は、統一協会の入教勧誘・教化過程の手段が社会的に相当なものではないことの指標として、@統一協会がその勧誘の当初統一協会であることや宗教団体であることを秘匿すること、A宗教教義であることを隠し、質問されればそれを積極的に否認して、普遍的真実を伝えていると称して統一原理を浸透させること、B手相や姓名判断や家系図判断など、統一協会の教義とは直接関係のない手法を駆使して、その教義上からも根拠があると考えられない害悪を告知する等して、欺罔威迫することをあげている。
その後の判例では、勧誘の当初、統一協会であることや宗教団体であることを隠して勧誘する点を指標としてあげたものはないと思われる。しかし、このことは、統一協会であることを隠して勧誘することの問題点を否定するものではない。統一協会の入教勧誘・教化過程において、その当初の段階で統一協会であることや宗教団体であることを隠して勧誘するのは、そのことを明らかにしては、被勧誘者を統一協会の入教勧誘・教化過程に勧誘することが極めて困難となるからである。
そして、そのことが不当なのは、いったんその入教勧誘・教化過程に入り込んでしまっては、宗教教義であることを秘匿して統一原理を徐々に浸透させられて罪人の自覚を持たされることや、因縁や霊界による恐怖を植え込まれることによって、その入教勧誘・教化過程から離脱することができなくなる人が、一定の割合で必ず発生するからである。そのような人達が、統一協会員となり、統一協会の入教勧誘・教化過程の目的にしたがって行為することを強いられるようになり、人生を破滅させられていくのである。
すなわち、引き返すことができなくなるように入教勧誘・教化過程を設計・組織しておいて、その最初、まだ普通の人として物事の判断が可能な時期に、判断の資料として最も重要な、勧誘主体が統一協会であること・宗教団体であるという事実を隠して勧誘するのであるから、それはきわめて不当なことと言わなければならない。
そのことによって侵害されるものが信教の自由(それは人格の中枢をしめる価値であるため、それを侵害されると人生を変えられてしまうのである。)という極めて重要な価値であるため、より一層不当なことなのである。宗教団体の勧誘行為であり、その目的は善なるものと言うのであれば、統一協会であることを隠して勧誘することの必要性も合理性もないことは当然のことである。
(2) 不当な目的を隠すこと
最近の判例では、統一協会がその勧誘の当初から、その不当な勧誘目的を秘匿したまま勧誘することが、勧誘手段として社会的相当性を欠くことになる指標の一つとしてあげられている(東京青春を返せ訴訟、東京青春控訴審、新潟青春控訴審)。この認定は、きわめて妥当なものだと考えられる。なぜなら、統一協会であることが開示されても、その入教勧誘・強化過程にとり込まれてしまう人がいるからである。統一協会であることの開示は、統一協会がどのような団体であるか、何を目的として勧誘をしているのかを知るための手がかりとなる情報にすぎないのであって、統一協会を知らない人にとっては、判断材料として不十分なものだからである。そのような場合、統一協会の目的が示されないと、勧誘される人にとってみれば、良いことへ向けてのほんのちょっとした一歩と誤解するように偽装されている入口への「承諾」が、自分の人生を破滅させることになることへの一歩なのだということが自覚されないまま、その決定がされてしまうことになるからである。
(3) 畏怖困惑させる手段と離脱を困難にする教え
各判例の手段についての叙述は、各弁護団が重点を置いた主張や立証と、担当した裁判官の個性とが融合し、それぞれのものとなっているが、先祖や霊界による因縁などで畏怖困惑させられて入教勧誘・教化過程に取り込まれ、そこで宗教教義であることを否認され、普遍的真理であると装った統一原理を徐々に教えこまれ、そこに含まれている、教義からの離脱を罪とする教えによって離脱を困難にされたり、アベル・カインの教えなどによって、自由な意思形成を阻害していることを、不公正な勧誘手段であると認定しているのだと思われる。
(4) 偽りの希望
それに加えて、統一協会の入教勧誘・教化過程には、「偽りの希望」を与えるという側面があることを指摘しておきたい。統一協会が、被勧誘者に「偽りの希望」を与えることができるのは、その入教勧誘・教化過程の比較的当初の段階で、執拗に、繰り返し、多様な説得方法で被勧誘者に罪人としての自覚を植え付けることに努力し、一定の割合の人たちには、詐欺的に、そのことに成功するからである。罪人としての自覚を植え付けられた人たちは、贖罪の道を、救いの道を探し求める心情をかき立てられる。そのような心理状態の人たちに、救いの道として、この道を、すなわち真理への道を学び続けることが提起される。学んでいくと、救い主・メシアがこの地上に現存することが伝えられる(歴史の同時性の講義)。メシアが地球上に現存していなければ、救いは成就されない。2000年前にイエスによる摂理が失敗して以来のメシアの再臨であり、これが最後の機会なのである。これは、罪人としての自覚を植え付けられた人たちにとっては、大きな希望となる(社会心理学のいう希少性のルールの利用である。)。その様な状態にある人を、上手に操作すれば、文鮮明であれ誰であれ、メシアとして受け入れさせることができる。
メシアであるとされる文鮮明は、被勧誘者達と全く同じく人間の男女の間から生まれてきたのであるから、統一原理によれば原罪を持っている。それを無原罪の人と教えるのだが、どうして文鮮明だけが無原罪なのかの説明は何もない。無原罪でなければメシアではあり得ないのにである。そして現実の文鮮明は、ただひたすら被勧誘者たち統一協会員を収奪し、その人の人生を破壊させておきながら、そのことによって何の心の痛みも感ずることがないと思われる人物であるから、与えられるのは悲惨なほどに「偽りの希望」なのである。しかしながら、騙されている人々にとっては、「偽りの希望」も「希望」として機能する。したがって、入教勧誘・教化過程を歩む人たちや統一協会員(精神的、肉体的に疲弊している場合を除く)は、一見希望に満ちているように見えたり、喜んでいるように見えたり、考えられないような要求に対しても任意に承諾を与えるように見えるのである。
後に別の比喩で説明するが、統一協会の入教勧誘・教化過程を人に歩ませ、その後統一協会員として活動させることは、まるで、重い荷物を引かせた馬に、険しい山道を登らせることのようなものであると思われる。そのような場合、人参とムチが必ず必要である。統一協会の入教勧誘・教化過程の場合、人参の役割を果たすのが「偽りの希望」であり、離脱したい気持ちになったときに引き戻すムチの役割を果たすのが、霊界や因縁などによって要所要所で意識の下層に埋め込まれていく恐怖心なのだと考えられる。
以上のとおり、統一協会の入教勧誘・教化過程で用いられている手段の社会的相当性を判断する指標として、各判例が取り上げ指摘しているもののほかに、罪でも何でもないことを根拠にして、被勧誘者に罪人としての自覚を植え付けるということも重視されなければならない。統一協会が罪人としての自覚を植え付けるのは、その人に自らについて深い宗教的な思索をさせるとか、罪人であることを自覚して他人を赦すように導くとかするためではなく、後述するとおり、文鮮明をメシアとして受け入れさせ、その人の人生を破滅させる不当な目的を実行させるためにすぎないものだからである。
(5) 社会心理学の知識の濫用
手段の点についても注目すべきは、ホームオブハート事件の判決である。この判決では、「精神医学や心理学の知識を基礎とする自己啓発セミナーのノウハウを流用して、マインドコントロールを施し、被告倉渕の言うことを聞かなかったり、セミナーへの参加を止めたりすると、地獄のようなつらい人生を送ることになると信じ込ませ。猜疑心を持たないようにすべきこと、思考を止めるべきこと並びに所持金が底をつくこと及び借金が返せなくなることに対する恐怖心をなくすべきであることを刷り込み、被告倉渕らの指示するとおり所持金や借入金を被告ホームオブハートに支払ってくれる人間に改造していったとみるのが相当である。」(甲第11号証 49頁)と判断し、「上に記載したような目的及び手法を持ってマインドコントロールされた状態に他人を意図的に陥れる行為は社会通念に照らし、許容される余地のない違法行為であることは、明らかである。精神医学や心理学の知識を濫用してはならないことは当然のことであって、これらの知識を濫用して他人の心を傷つけることが、およそ血の通った人間のやるようなことでないことは、論を待たないところである。」(同49〜50頁)と述べている。
ここで指摘されていることは、統一協会の入教勧誘・教化過程の目的及び手段とほとんど変わらない。主語が変わるだけである。統一協会員は「文鮮明の言うことを聞かなかったり統一協会をやめたりすると地獄のような人生を送るようになる」と信じ込まされている。統一協会員の場合は自分のことだけではない。自分が文鮮明の言うことを聞かないと、家族、親族、死亡した先祖たち全てが救われず、永遠に生きるべき霊界で地獄に行かなければならないと誤信させられている。猜疑心を持たないようにすべきとのことについては、「幼子のような心」で教えを信ずること、統一協会を不信することは最悪の罪と教えられる。思考を止めるべきことは祈りをさせることによって、それと自覚をさせないで実行させている。借金の恐怖については、入教勧誘・教化過程で系統的に「財についての価値転換」をはかっている。金を持っていては救われない。金(万物)はそもそも神のもの、天に宝を積むことの重要性等々。統一協会の入教勧誘・教化過程において、社会心理学の諸技術が、多彩に用いられて、それによって人の心が傷つけられていること=罪人だと思い込まされたりしていることは、既に解明しているとおりである。
したがって、統一協会が不当な目的を持って、不当な手法を用いてマインドコントロールされた状態に他人を意図的に陥れる行為が、社会通念に照らして、許容される余地のない違法行為であることは、前記判例の言うとおり、明らかなことである。
(6) 壮婦の教育過程の違法性について
ア 東京青春を返せ訴訟の判断
東京青春を返せ訴訟の一審判決は、統一協会の入教勧誘・教化過程について、「その不当な目的を秘匿したまま、先祖の因縁話をしたり、霊界の先祖からの働きかけや自己の罪深さを意識させるなどして不安をあおり、それによって、次の教化プログラムに進ませている」と判断している。
壮婦に対する統一協会の入教勧誘・教化過程は、まさしく、上記判決の指摘するとおりの構成になっている。壮婦に対する統一協会の入教勧誘・教化過程の内容は、別表「壮婦に対する入教勧誘・教化過程の内容と特徴」(以下、「別表壮婦」という。)に記載したとおりである。青年に対する入教勧誘・教化過程との対比は別表壮婦に青年のコースを記載してあるので、参照されたい。
イ 統一原理を教育する前に因縁、地獄、女性の罪を植えつける
壮婦に対する統一協会の入教勧誘・教化過程には、青年に対するそれと比較して、明らかに違った部分がある。それは、最初から統一原理を教えられる青年の場合と違い、統一原理を教えられる前に、中級コースの前半と初級コースが配置されていることである。初級コースで教えられることは、因縁による脅しであり、先祖の因縁が子どもや夫に及ぶことを避けるために嫁であり妻であり母である壮婦に特別な使命と責任が与えられているということであり、因縁清算の道は、出家者の行く道=徹底的な自己犠牲の道ということである。中級コースの前半で教えられることは、自己中心的に生きること(嫁として、妻として、母として、完璧に、舅・姑、夫、子どもに尽くしぬいて生きる、のではない生き方)によって地獄にいくが、地獄は恐ろしいところだと脅すこと、子どもとの関係で、母=女性の特別な重要性、母として幼児期に愛情を込めて育てることの重要性、そもそも女性として子宮を汚れのない・聖なる器官として維持することの重要性(夫以外の男性との性行為で子宮が汚れる、そのことが子どもに遺伝すると教えている。)、そして因縁清算の道は自己犠牲の道であることの強調、ビデオを見た後の主任との話し合い(和動という。)や映画氷点を見せることによって、女性のうちに潜む「原罪」を自覚させるということである。
そのような教育を行ったうえで、創造原理からの統一原理の講義を始めるのである。上級トレーニングの2ヶ月目に主人復帰講座がある。この講義は、初級コースと中級コースの前半の教育内容とかかわっている。そこでは、壮婦を惹きつけるために夫婦が一体となることにより理想の家庭を作ることができ、因縁を切ることができると教える。主人復帰講座で夫婦が一体になるとは夫を統一協会員にすることであると教えられる。それは妻にとって命がけの課題であるとされる。
そのような教えのままでは、壮婦は自分の家庭にばかり目を向けてしまい、統一協会の役に立たなくなる。そこで上級トレーニングの3ヶ月目に「公的責任分担と理想家庭実現」の講義が行われる。公的責任分担とは統一協会の活動の事であるが、それは、真の家庭を作るための訓練であるからという理由で、統一協会のための活動を優先させるのである。
なお、壮婦に対する統一協会の入教勧誘・教化過程においては、初級コースと中級コースを受講させることを被勧誘者に決定させるためにも、極めて不当な方法がとられている。新規チケットの販売と鑑定、中級コースを受講させるための鑑定がそれである。例えば、新規チケットの販売と鑑定では、たった1日程度の練習で姓名判断のやり方を覚えさせられ、その結果を統一協会が編集した悪い運勢しか記載されてないマニュアルに当てはめて被勧誘者を嘘で脅して、鑑定を受けることを決断させ、その際、詐欺的に、詳細な個人情報を収集し(開運円グラフを用いる。)、その個人情報を秘密裏に鑑定を担当する、まるでその道の権威であるかのように装った統一協会員に伝え、「鑑定人」はそれを用いて被勧誘者の心理的弱みや懸念している問題点を、鑑定の結果ズバリと言いあてたかのように誤信させて特別な信頼を獲得し、姓名判断や家系図を用いて、今ここであなたが真理を勉強しなければ、取り返しのつかない不幸が子どもや夫を襲うことになると脅して初級コースの受講を決定させるのである。
前記の東京青春を返せ訴訟の判決に照らせば、壮婦に対する統一協会の入教勧誘・教化過程の不当性は明らかであると言わなければならない。
ウ 別表「人格変化」の説明
壮婦に対する統一協会の入教勧誘・教化過程が、その手段において、社会的相当性を欠いていることについて、別の側面を別表「本来の自己(アイデンティティー)が統一協会的自己へ変化させられ、それが維持される理由」(以下、「別表人格変化」という。)を用いながら、説明する。
まず、別表人格変化について、若干の説明を加える。下段の「普通の人の常識・その人の本来の自己の変化」というところから右側に伸びている線は、「本来の自己」の変化の様子を、線分の種類や太さで表現しようと試みたものである。当初、太い線分で表されていた「その人本来の自己」が文鮮明をメシアとして受け入れる決定の段階くらいから細くなっていき、新規隊のころからは点線となっている。点線となった状態は、「その人本来の自己」が「統一協会的自己」とかかわってくる意思決定の際には機能しなくなる状態を表現しようと意図したものである。大切なことの一つは、「統一協会的自己」によって機能しなくなる状態になったとしても、「その人本来の自己」がなくなってしまうわけではないということである。「その人本来の自己」は、「統一協会的自己」によって抑圧され、意思決定の機会にそれが機能することが阻害されているとはいえ、存在し続けているのである。したがって、統一協会から脱会することができたとき、「その人本来の自己」の機能が復活してくる。そのことが、脱会の段階での実線によって示されている。その復活の過程は弱々しかったり、苦痛に満ちたものであったり、充分にその機能を果たすことができないものであることが脱会の当初にあるので、最初の実線は細いもので表現してある。
「統一協会的自己」は自然な、通常の人格形成の過程を経て、その人に宿るものではない。他害的で、自己破滅的な自己であるから当然のことである。計画的に設計され実施される統一協会の入教勧誘・教化過程を歩まされることによって、そのことによってのみ、一定の割合の人が、「統一協会的自己」を人為的に植え付けられるのである。「統一協会的自己」が形成される過程を、上段にある「文鮮明のための物売りと献金が自分と世界のすべての人のための救いの条件であることを信じ、実践することを重要な一側面とする統一協会的自己への変化」の欄と同じ高さで右側に伸びる線分で表わした。統一協会の入教勧誘・教化過程を初級コースから歩みはじめるにつれて、「統一協会的自己」が少しずつ植え付けられていく。それを点線とその変化、細い実線、少し太い実線で表現することを意図した。新規隊は、植え付けた思想を定着させる過程であるので、太い実線とした。各部署で活動してる間、少し細い実線で表現された期間がある。これは、「統一協会的自己」が弱まることがあることを示す。統一協会用語で、「基準が下がる」という状態を表現している。すなわち、統一原理が正しいと信じていても、肉体的疲労や精神的疲弊によって、活動に参加することができなくなったりする状態になることがあることを表現している。そのことが継続すると統一協会を離れてしまうことがおこる。これを自然脱会という。自然脱会は「統一協会的自己」が残存している状態なので、脱会自体が苦悩と恐怖に満ちたものである(やめると地獄に堕ちると脅されている。)ばかりではなく、統一協会からの簡単な働きかけで統一協会員として復活することがよくある。
そうではない脱会は、劇的であり、ドラスチックである。人為的に植え付けられた「統一協会的自己」は、知的な側面については、瓦解させることができる。すなわち、それが真理ではない、虚偽であると認識させることは、統一協会員が、心を開き、アベル・カインの教えを克服して、自分の頭で考えるならば可能である。真理でないということになれば、詐欺的に物を売ることは犯罪行為であることが理解できる。そうすると、統一協会の実践をすることはできなくなる。その状態は「その人本来の自己」の意思決定を阻害していた「統一協会的自己」の重要な側面が存在しなくなったことを示している。その考えが、その人の生き方を拘束するものになることは、二度と決してあり得ない。
「統一協会的自己」のその他の部分、感情的部分や情緒的部分などは、解消されるまで時間がかかり得る。霊界の恐怖や先祖の因縁などのもたらす恐怖感情を克服するのには時間がかかる。また、統一協会はその入教勧誘・教化過程で、世の人々がすべて堕落人間であることを説明するために、幼少期などに親などの行為によって生まれた心理的傷などを攪拌し、拡大し、自覚させる。そのことによって、身近な者、特に親などとの関係に隙間を入れ、親をサタンとして認識させるためである。そのような心理的な感情は、統一協会の中にいては解決されないまま残されているので、脱会後その整理に、戸惑ったり、時間のかかるケースもある。しかし、統一協会の影響から切り離されれば、それらの問題も時間の経過や、関係者の人間的成長によって解決されていくことになる。それらの、複雑な問題点については、別表人格変化では記載を省略してある。
エ 崖のような断絶
別表人格変化の左側の上下に「その人本来の自己」と「統一協会的自己」が配置されている。統一協会が求めるのは、「その人本来の自己」から、判断基準・思想・感情・人格を変化させて、「統一協会的自己」になることである。この二つの自己の間には、比喩的に言えば、崖のような、垂直な断絶があり、普通の人がそれを乗り越えて、「その人本来の自己」から「統一協会的自己」へ、直ちに変化することはとうてい不可能である。すなわち、統一協会が被勧誘者に、「文鮮明のための物売りは、あなたの救いのためなのですから、すぐ一緒にやりましょう。」と呼びかけたとしても、その呼びかけに応ずる者は絶対にいない。したがって、統一協会が、その目的を変更しないで人を勧誘しようとすれば、目的の実践を直ちに求めることはできないのである。
オ 最終的決定を求める時期を先送りする
そこで、統一協会は、被勧誘者に対して、勧誘当初には、目的の実践を直ちに求めることはしないように、入教勧誘・教化過程を設計・組織することにしたのだと推認される。その決定を受け入れてもらう時期を先送りするのである。先送りした時間を利用して勧誘者に教育を施し、その認識を変えてから、その決定を受け入れさせようとするのである。
統一協会が、壮婦の入教勧誘・教化過程において、その真実の目的を明らかにし、その受容を求めるのは、教育隊と名付けられた過程の冒頭においてである(別表壮婦も参照のこと。)。それは、「万物復帰の意義と価値」と題する講義の形式で、被勧誘者に与えられる。青年の入教勧誘・教化過程においては、実践トレーニングの冒頭において「公式七年路程」と題する講義の形式で、被勧誘者に示されるものと全く同じ役割を持ったものである。違いは、青年の場合、合同結婚式による救いのために、7年間の物売りと組織拡大が必要であると教えられるのに対して、既婚婦人である壮婦に対しては、合同結婚式による救いはないという点だけである。
別表壮婦によって教育隊におけるその後の教育内容を見ると、行われる講義は、呉服の展示会に対する講義など、直接的に統一協会の物売りのための講義である。それが終わると実践がまず「伝道」(新規チケット販売)から開始される。このこと自体、すなわち統一協会の入教勧誘・教化過程の講義の配置の仕方自体が、統一協会が、被勧誘者に、最終的に受容することを求めている思想・価値は、文鮮明のための物売りを自らの救いの条件であると信じて実践することであり、統一協会の入教・勧誘強化過程の目的がそのような人間を作ることにあることを示している。
カ 求める決定の性質とメシアの必要性
ところで、統一協会の求める上記の決定は、その内容から言えば、嘘をついてでも統一協会の商材を販売することを正当化するものであり、被勧誘者にとって、自己の全財産のみならず、例えば、統一協会員ではない人に対して老後の蓄えをすべて統一協会の商材に消費させることをも、正当化するのである。それは、自分の人生を破滅させる決断を求めるものであり、倫理的規範を踏みこえるものでもある。したがって、普通の人に、そのような行動をさせるのは不可能である。例えば、日本で、最高の権威である内閣総理大臣が、そうするように命じ、勧告し、懇願したとしても、それを実践する人はいない。もしごく少数の人にそのような行為を行わせることができたとしても、それらの人が、一生その行為を行い続けることはあり得ない。
ところが、統一協会員は、統一協会員である限り、そのような行為を行うのである。統一協会の目的は、そのような行為を永続的に行なえるように、人間を改造することである。日本最高の権威でさえ命ずることができないことをどうすれば行わせることができるのか?
宗教の要素を利用する以外ないのだと考えられる。「宗教的確信」に基づく行為として実践させるのであれば、自己破滅するような行為をさせることも、倫理的規範を踏みにじるような物売りを一生させることも、可能となる。それは、オウム真理教の諸事件をみると明らかである。人は、「宗教的権威」である「グル」の命令であれば、「宗教的確信」に基づいて、正しいこととして、人を殺すことだってできるのである。
したがって、被勧誘者に自己破滅するような行為や倫理的規範に反する物売りをさせるためには、その人に「宗教的権威」を植え付けなければならない。植え付けた「宗教的権威」の説き明かした真理として、物売りと献金が自分と相手の救済のために必要なことだと講義され、「宗教的確信」とさせられるから、自己破滅につながるような行為をさせることや倫理的規範に反する物売りが可能となるのである。
以上のとおり、統一協会にとっては被勧誘者に、「文鮮明をメシアとして受け入れ」させることが、必要となる。そして、これが「統一協会的自己」の中核なのである。
文鮮明は統一協会にとって、現世、来世を貫ぬいて最高の「宗教的権威」となる。そのような「宗教的権威」が「統一協会的自己」の中核として存在するのであるから、統一協会員は文鮮明=統一協会の奴隷のように行動するのである。
キ 罪人は救いを求め、メシアを受け入れる
ところが、街頭で、文鮮明の写真を示して、この人がメシアですといくら説得したところで、そんなことを信ずる人はいない。最初から文鮮明はメシアですと言ったのでは、それを信ずる日本人は一人としていないであろう。文鮮明をメシアとして受け入れさせるためには、特別な工夫が必要なのである。その工夫が、堕落人間であることを自覚させ、罪人であることを自覚させ、救いを求める心情をかきたてることである。そのような心理状態に追い込まれた人を上手に操作すれば、文鮮明をメシアとして受け入れさせることができる。(上記「偽りの希望」参照)そのための講義が中級コースの後半から上級トレーニングの1ヶ月目に配置されている創造原理から始まる統一原理の講義なのである。
ク 因縁を教え込む必要性
しかし、堕落人間とか、罪人とか、原罪という観念は、日本人にとって身近なものではない。エバとルーシェル、エバとアダムの性的行為が人間堕落の原因であると最初から講義したとしても、結婚してすでに社会的に認知された性体験をしている壮婦に受け入れさせることは困難である(青年の場合は、未婚であるから、自分の内面にある性的衝動を罪人であることの証拠として用いたり、結婚前の性体験を罪と誤解させることができる。)。無理なことを講義していては、講義を受けなくなってしまう可能性が高まる。それを避けるために、統一協会の壮婦に対する入教勧誘・教化過程は、統一原理を教える前に、初級コースと中級コースの前半の部分を配置するように設計されたのだと推認される。初級コースと中級コースの前半は、前述のとおり先祖の因縁など仏教的な要素を前面に出して脅しながら、家庭の主婦の最も重要な関心事である夫や子どもの幸福のためにどう生きるべきか、あなたの生き方が問題だ、最も神聖な器官である子宮を汚した(夫以外の男性との性交渉がすぐ想定される。)ことで、子供へ悪い要素が遺伝する、あるいは遺伝していると指摘することで、罪の意識を攪拌し、作り出していくことを内容としているのである。そのような準備があれば、壮婦は、統一原理の堕落人間とか罪人という「自己規定」を受け入れていきやすくなる。統一協会の入教勧誘・教化過程は、そのことを意図して、設計・組織されたのだと推認される。
以上のとおり、統一協会の入教勧誘・教化過程は、その目的から逆算して何が必要かが考えられ、設計・組織されていったものだと考えるべきなのだと思われる。
以上のとおり、統一協会は被勧誘者の人生を破滅させるようなことや、その倫理的な規範に反するようなことを実践させるために文鮮明をメシアとして受け入れさせる目的で、その人達に罪人であるという観念を詐欺的に植え付けるのである。そのために因縁で脅すという手段が社会的に不当なものであることは明らかである。
ケ 船を山に登らせるような操作
それでは今度は、統一協会の入教勧誘・教化過程の順番に従って、その問題点を考えてみよう。統一協会の入教勧誘・教化過程の目的は、前記のとおり、「万物復帰の意義と価値」を真理として受容し実践する人間を作り出すことである。それを直ちに求めても不可能であるから、その決定を先送りすることはすでに述べたとおりである。そのことによって、「その人本来の自己」から「統一協会的自己」への変化は、比喩的に言えば、崖を越えることではなく、山道を登るようなものに変えられたのである。山道を登ることとは、この場合、徐々に高度をあげていくこと、すなわち、少しずつ教育をして、その人の認識を変えていくことである。その山道について一つの決定で全ての過程を進ませることは不可能である。そのようなことをすると、目的を告げなければならなくなるし、そんなに長期では参加させることが困難となる。そこで、統一協会は、その決定に至るまで、3段階の決定を教育過程の途中に配置して、それぞれの決定を求め、その決定によって歩むことになる教育過程で、統一原理をそれと隠して、普遍的な真理として教え込み、その人の意識・認識を作り替え、次の決定を受け入れることができるような段階にまで考え方を変えたうえで、その決定を求めるというやり方をとっているのである。
比喩的に言えば、それは、運河によって、船を山に登らせるような操作である。初級コースの受講決定によって、初級コース受講が開始される。これは、運河の水門の後ろ側の扉が閉じられたような状態と考えればいいと思われる。決定という人間の行動には、特別な力が秘められている。この場合には、決定の、心理的に退路を断つという力をイメージすると、水門の後の扉の閉鎖という比喩が、理解しやすいと考えられる。そのような状態で、統一原理についての教育が行われる。ビデオを見た後には、主任による和動が行われる。和動は、被勧誘者の価値観の変換を意図して行われ、各ビデオごとに、被勧誘者の認識の変化がどのレベルまできているのかがチェックされ、必要な対策が取られるようになっている。比喩的に言えば、それは閉じられた運河に水が加えられ、水路の高さが高まっていくようなものである。そのことによって船は次の水門の水位と同じ高さまで登るのである。そのような、組織ぐるみで細密な工作によって、被勧誘者の認識が高まったと判断されれば、次の段階の決定が求められるのである(別表人格変化の4つの決定が水門を、青い文字が教育内容によって水位が高まっていく状態を表現している。)。
青年に対する統一協会の入教勧誘・教化過程においても、4段階に分割した決定が求められた。壮婦の場合との違いは、青年の場合は、ツーデイズ、フォーデイズという統一協会がその環境すべてを支配できる合宿という場で、心理的な高揚状態を意図的に作り出して、その中で決定を求めるという手法をとっていることである。壮婦の場合には、合宿形式のセミナーに参加させることはできない。そのようなことをすると、それだけで、参加が無理な人が多数であろうし、そこで無理をさせると、家族に疑念を持たせてしまうことにもなりかねない。そうすると、壮婦の場合には、青年のコースにおける心理的な高揚状態と同じような、意志決定を歪めさせることが行われなければならない。それが、初級コースや中級コースの受講決定の際に、先祖の因縁で強く脅し、中級コースの中で、性的問題での罪を強く自覚させるというやり方なのだと考えられる。ここで強く心理的に拘束しておけば、教育を受けることを継続させることができ、合宿という場ではなくても文鮮明をメシアとして受け入れる決定をさせることができるのだと思われる。
以上のとおり、統一協会の入教勧誘・教化過程は、勧誘目的の秘匿、教義とは直接関係のない因縁による脅しや地獄による脅し、それを利用しながら罪人としての自覚を植え付け、それらの心理状態を利用して段階的に配置された意思決定をさせ、ついに、文鮮明をメシアとして受け入れさせ、メシアである文鮮明の解明した真理として、物売りは救いのためという考え方を受け入れさせ、実践させようとしているのであるから、それが被勧誘者の意思形成の自由を阻害し、信教の自由を侵害した違法のものであることは、明らかである。
5 結果について
それぞれの判例の判断によると、自由意思を阻害し、信教の自由を侵害したというのが、結果である。そして、財産権を侵害され、労働力を搾取され、婚姻の自由も侵害されるのである。原告らは幸いなことに、両親の努力によって統一協会から脱会することができたが、それがなかったならば、一生を文鮮明のために奪われることになったものなのである。
被勧誘者が統一協会に与えた個々的な「承諾」についても、その効力を否定するのが、判例の考え方である。その理由付けは必ずしも一致していないが、私見によれば、次のとおり考えるべきだと思われる。
統一協会による入教勧誘・教化過程の結果、被勧誘者には、「統一協会的自己」が形成される。「統一協会的自己」は、「その人本来の自己」を機能させなくする。意思決定の局面において、「統一協会的自己」が機能する時に「その人本来の自己」の意思決定が阻害されて、自由な意思形成ができないという関係が形成される。統一協会員が、統一協会員になったあとで、畏怖困惑させられるような働きかけもなしに献金をしたり、物品を購入したりするのは、「統一協会的自己」が意思決定をしているからである。「統一協会的自己」にとっては、それは正しいことであるが、「その人本来の自己」にとっては誤ったことである。「その人本来の自己」による意思決定は、「統一協会的自己」によって阻害されているため、畏怖困惑させられるような働きかけもなしに、「その人本来の自己」にとってはあり得ない、自分の人生を破滅するような意思決定もされてしまうのである。
統一協会員も苦悩する場合がある。例えば、親に多額すぎる買い物をさせてしまうように働きかけることを求められた場合などである。問題を感じているのは、「その人本来の自己」である。「その人本来の自己」が、そのようなことはやめるべきだという意思形成をしようとしているのである。そのような意思形成が、「統一協会的自己」によって阻害されてしまう。例えば、救いのために必要なんだからとか、天情に徹しなければならないとか、霊界にいけばわかるという信念が、「その人本来の自己」による意思形成を抑圧して、親に多額すぎる買い物させてしまうのである。
そのように考えれば、統一協会員である期間の、統一協会に利益となる統一協会員の意思決定はすべて、「統一協会的自己」によって「その人本来の自己」の意思形成が阻害された結果と考えるのが相当なのである。そう考えれば、別表動向の「個々の承諾の効力について」の欄に記載した、各判例の考え方を統一的に説明することができるのである。
そのような結果をもたらすのは、統一協会の違法な入教勧誘・教化過程によって、「統一協会的自己」を植え付けられてしまったことによるのである。従って、統一協会員であった期間中の、統一協会に対する献金や物品の購入や退職=献身や、合同結婚等は、すべて統一協会の違法行為と相当因果関係がある被害なのである。
以上