一審判決 256P23行目冒頭〜258P15行目末尾

1 前記のとおり,わが国の社会一般の倫理観・価値観においては,人は敢なき隷属から解放されるべきであるから,信仰による隷属は,あくまで,自由な意思決定を経たものでなければならない。信仰を得るかどうかは情緒的な決定であるから,ここでいう自由な意思決定とは,健全な情緒形成が可能な状態でされる自由な意思決定であるということができる。
したがって,宗教の伝道・教化活動は,自由な意,思決定を歪めないで,信仰を受け入れるという選択,あるいは,信仰を持ち続けるという選択をさせるものでなければならない。

2 伝道活動についてみると,信仰を受け入れさせるという宗教の伝道活動は,まず第一に,神の教えであること(教えの宗教性あるいは神秘性)を明らかにした上で相手方に信仰を得させようとするものでなければならないとすべきである。神秘と事実を混同した状態で信仰を得させることは,神秘に帰依するという認識成しに信仰を得させ,自由な意思決定に基づ(か)ない隷属を招くおそれがあるため,不正な伝道活動であるといわなければならない。
次に,入信後に特異な宗教的実践が求められる場合,その宗教の伝道活動においては,入信後の宗教的実践内容がどのようなものとなるのかを知らせるものでなければならないとすべきである。信仰を得させた後で初めて特異な宗教
的実践を要求することは,結局,自由な意思決定に基づかない隷属を強いるおそれがあるため,不正な伝道活動であるといわなければならない。


3 次に,教化活動についてみると,信仰を維持させるという宗教の教化活動の場面においても,歪んだ形で情緒を形成させることは許されない。人は,信者以外の家族や友人・知人とのつながりにより常に情緒面での変化を遂げるから,一旦得た信仰であっても,これをいつまでも持ち続けるとは限らない。これは仕方のないことである。信仰の維持を強制するため,人の情緒面での変化をもたらす家族や友人・知人との接触を断ち切り,歪んだ形で情緒を形成させ,信仰を維持させることは,不正な教化活動であるといわなければならない。
また,宗教教義の実践をさせるという教化活動においては,不安や恐怖を煽ってどのような宗教教義の実践をさせても良いと考えることはできない。
もともと,旧約聖書の神(ヤハウェ、)は,祈りの放棄や棄教といった裏切りに対し苛烈な罰を課する神であるから,旧約聖書に基づく一神教において,このような信仰の怠りに対する罰(救済は否定され永遠の地獄で苦しむことになる等)を教えること自体は,いわば当然の帰結となる。
その結果,信者が罰を怖れて祈りを実践し棄教を思い止まり,そのことが信仰を維持させる力となっていることは否定できないが,そのような罰の教えにとどまるのであれば,現代社会でも,不当なものとすることはできない。
しかし,金銭拠出の不足を信仰の怠りとする教化活動の是非となると問題は別である。祈りをするしないは純粋に人の内面にとどまる問題であるが,金銭拠出の不足を信仰の怠りとした場合,これによって生ずる問題は人の内面にとどまらない。信者は,救済が否定されてしまう不安や恐怖に煽られ,金銭拠出に不足が生じないよう,貴重な蓄えを宗教団体に差し出して経済的困窮に陥るかもしれないし,どのような手段を講じてでも金銭を手に入れようとするかもしれず,社会的に看過できない亨・態が生じるおそれが強いからである。
したがって,金銭拠出の不足を信仰の怠りとし,そのことが救済の否定につながるとの教化活動は,その程度が行き過ぎとみられる場合には,やはり不正なものといわざるをえない。


【トップページへ戻る】