郷路弁護士通信
2013年10月9日
 魚谷次長、統一協会の信仰は言葉による説明で得るものではありません

1.魚谷次長は2次訴訟判決の「第4章被告の損害賠償責任」の「第1宗教活動の自由の限界」の中の「2.一神教の信仰は、神秘に帰依すること・・・」以下この項全体の文章と「6.一神教の信仰を得る、すなわち、神秘に帰依し教義に隷属するとの選択・・・」以下この項全体の文章を引用して、2次訴訟判決は「一神教の信仰はその他の信仰に比べ『隷属的』であり、それを広める活動は『人に隷属を強いる行為』であるため、人が自由な意思決定によってその信仰を得たかどうかは、その他の信仰よりも厳格に判断されなければならないことを示唆して」おり、「結果的に一神教を差別することになっているのである。」と主張している〈リンク〉。
 魚谷次長が引用した上記の文章は、2次訴訟判決の「第1宗教活動の自由の限界」の1項から7項までの文章(2次訴訟判決:240頁〜242頁)のうち、2項と6項のみを抜き出したものである。2次訴訟判決は、魚谷次長が引用した部分以外の4項では、「4.憲法20条による信教の自由の保障は、宗教活動の自由の保障をも含むものと解されているから、わが国においては、他人に一神教の信仰を得させようとする伝道活動も原則として自由である。すなわち、神秘に帰依し教義に隷従することを勧誘しても構わないのである。」と述べている。一神教の信仰と他の信仰を差別しているような記載は全くないのである。
 魚谷次長が引用している「6.一神教の信仰を得る、すなわち、神秘に帰依し教義に隷属するとの選択はあくまで個人の自由な意思決定によらなければならない」という部分の中心は「一神教の信仰を得る」ところにあるのではなく、「神秘に帰依し教義に隷属するとの選択はあくまで個人の自由な意思決定によらなければならない」というところにあると判断される。統一協会の主張によれば「多神教であっても人の心や行動に対する絶大な支配力を持つことはある。」という(PDF・控訴理由書 46頁)。そうであるから、「神秘に帰依し教義に隷属する」との選択であれば、多神教の信仰を得る場合でも同様に「あくまで個人の自由な意思決定によらなければならない」と2次訴訟判決は言っていると読むべきである。
 以上のとおり、一神教を他の宗教と比較して差別的に扱っているという魚谷次長の主張は誤っている。
2.2次訴訟判決は魚谷次長が引用するとおり、「一神教の信仰は、神秘に帰依すること、すなわち、神秘なるもの(神が授けたとされる教えなど)を絶対に信じこれに自分を任せきることを意味する。」と判示している。一神教一般について論ずる能力は私にはないが、少なくとも統一協会については、2次訴訟判決の前記判示は極めて正当である。すなわち、統一協会の信仰を得させることは、「神秘に帰依すること、神秘なるもの(文鮮明がメシアであることや、文鮮明が解明した統一原理)を絶対に信じこれに自分を任せきること」を選択させるものである。そのような性質の選択であることを隠したまま、感情をゆり動かして、文鮮明をメシアであると信じさせてしまうのが統一協会のやり方なのである。

3.2次訴訟判決は上記引用部分の直後で「このような信仰は、科学主義(合理主義)の対極に位置する神秘主義に属しており、人は、言葉による論理的な説明を理解して信仰を得る(神秘に帰依する)のではない。」と判示している。
 魚谷次長は、この判示のうち、「このような信仰は、科学主義(合理主義)の対極に位置する神秘主義に属しており」について、第2回の後半部分と第3回のほとんどの部分を費やして批判している。一神教の信仰が科学主義(合理主義)の対極に位置する神秘主義に属しているのかいないのかについて、私には知識がないのでそれを議論する力はないが、その点についての判断がどのようなものであれ、この判決の正当性に傷がつくものではない。すなわち、この判示部分の重要なところは、「『神秘なるもの(神が授けたとされる教えなど)を絶対に信じこれに自分を任せきる』という信仰は『言葉による論理的な説明を理解して信仰を得る(神秘に帰依する)のではない。』」という部分なのである。
 そして、統一協会員については、文鮮明がメシアであるという信仰は、言葉による論理的な説明を理解して得たものでは、全くない。文鮮明がメシアであることの説明のためには、文鮮明が無原罪であることの説明が論理的に必要なのだが、統一協会はその説明を一切しない。入信前の原理講義の中で説明されることも全くない。

4.これに対して、魚谷次長は第3回目の末尾で「原告である元信者らは『原理講論』の内容を分かりやすく解説した「原理講義」のビデオや、生講義を聞くことによって、言葉によって論理的・体系的に教義を説明されて信仰を持つにいたったのであり・・・神秘主義によって信仰を持つにいたったのではない。」「本件全証拠によれば、原告らが受けた伝道や教化の活動は、言葉による教えの伝達に膨大な時間が費やされていることが明白であり、言葉による論理的な説明を受けて信仰に至ったのではないという地裁判決の認定は誤っている。」と批判している〈リンク〉。
 統一協会も控訴審の控訴理由書で2次訴訟判決のこの部分を批判しているのだが、魚谷次長と違って、原告らは言葉による論理的な説明によって信仰を得たという主張はしていない。「(原告らは)論理的、体系的に教義を理解した土台の上で信仰を持つに至ったもの」と主張しているのである(PDF・控訴理由書43頁)。その意味では、魚谷次長より統一協会のほうが正直である。言葉による説明は「土台」に過ぎないもので、信仰を得ること自体は、言葉による説明によるものではないことを認めているのである。
 統一協会が教える「土台」は以下のとおり虚偽だらけのものである。文鮮明をメシアとして受け入れることは、虚偽の、言葉による説明を「土台」として、そのうえで情緒を大きく動かされて初めて可能となるものなのである。

@ 神が存在すると認識させるための方法
 神の存在を信じさせる方法は、神を求める心を高めさせ(情を変えて)、何事にも因果関係を求めたがる人間の傾向・性質を利用して、関係もない偶然の事柄を神の行為であると誤認識させていき(知を変える)、その誤認識を「集団への順応」の原理を利用して、全体に及ぼすという方法によっている。
 ツーデイズやフォーデイズに参加させる際、「神の働きを求める」という動機付けを受講生に対しておこなう。受講生は、必死になって神の働きを探し求める。その結果、何の関係もないことに神の働きを見い出すことになる。
 ライフトレーニングでは毎晩の夕食の後、1人1人に「今日、神を感じた人は?」という質問をして、答えさせる。そのうち1人が、ごく日常的な、偶然の出来事を神の働きであると認識したという趣旨の発言すると、統一協会員たる主任によってその認識が評価され、全体に及ぼされていく。受講生は夕食の場での発表のため、神の働きを探し求めて毎日の生活を送るようにさせられる。その結果、次第にそのような認識を発言する人が増えていき、受講生ほぼ全員が神の存在を信ずるようになるのである。これは、「集団への順応」(PDF・『統一協会マインドコントロールのすべて24〜25頁)の原理を利用した、日常生活の中に神の働きを求めさせる極めて強力な方法である。これらによって、受講生を誤導して神の存在を信じさせるのである。
 神の存在を信じさせることができれば、神の復帰摂理の歴史、すなわち、人間の歴史が6000年であること、2000年ごとにメシアが現れること、今メシアが現れる時期であることを、真理として認識させることができる。そのような誤った歴史認識をさせたうえで、偽りの多い文鮮明の個人史が語られる。

A 受講生を罪人と自覚させれば、受講生はメシア(救い)を求める。だから、文鮮明をメシアと受け入れさせる為に、罪でもないことに罪意識を感ずるように操作する教えが講義の中に何度も配置されている。堕落論、メシア論がそうであり、再臨論の中の、戦前の日本が韓国に対して侵略行動を行ったことなどもそうである。

B 文鮮明をメシアとして受け入れさせるためには、統一協会とは明らかにしていない布教課程での学びを続けさせなければならない。そのため恐怖心、使命感、責任感、希望等々の感情が、知識を与えるものと装われた講義を通じて、受講生に植え込まれていく。

C 以上のことを「土台」に、フォーデイズで罪意識を激しく刺激する講義をしたうえで、文鮮明が罪人である受講生に愛を与えることを内容とする「お父様の詩」が朗読される。その愛に感動させられて受講生は文鮮明をメシアと受け入れてしまうのである。以上のような方法によって宗教的回心が人為的に起こされている。
 以上の詳細については、魚谷次長が「偏見に満ちていて書評に価しない」と切り捨てた「大学のカルト対策」の私の論文「青春を返せ訴訟25年:統一協会との闘い」を参照して頂きたい。

 以上のとおりであるから、統一協会さえ主張していない、原告らは言語による論理的説明で信仰を得たという魚谷次長の主張は全く誤っている。

以上


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